2018年12月16日 聖書:ヨハネによる福音書 1章1~5節「初めに」鈴木重宣牧師

 今年は熊本の仮設住宅でクリスマス会を10回行う。残すところ後2回となった。まだ16日なのにすでにクリスマスをやりきった感が強くて困ってしまう。毎回いろんな牧師さんにクリスマスの小話をして貰っている。「クリスマスとは何の日?」「ツリーの意味は?」などの小話など盛りだくさんで普段はキリスト教について等は話せないボランティアなので、このクリスマス会だけがキリスト教話題の機会として楽しい時間でもある。
 今年もまた節目がやってくる。2018年から2019年へとすべてが移行する。年度の考え方では春が区切りでありスタートでもあるが、年と年度のずれに毎年苦労する。なぜ4月に年度を変える必要があるのか。確かに春は出発や心機一転にふさわしいような気もするが、1-3月のずれに悩まされる。税金は1-12月なのに就職は4月。なんだかとってもめんどくさい。そこで考えるのは、教会の節目はいつがふさわしいのか、ということ。クリスマスの12月か、イースターの3月4月か、ペンテコステの5月頃か。救世主の誕生を起点とするか、神の御子の復活を初めとするか、宣教開始を基点とするのか。かなり迷い甲斐があるテーマではあるが、簡単に結論など出せそうもない。教会創立記念日、も候補になるだろうか。節目や基点は立場毎にいろいろあってしかるべきなのに、会計年度は4月-3月が当たり前となっている。果たしてこれが主の喜ばれるあり方なのだろうか、と疑問を抱かざるを得ない。創世記にあるように、「光あれ」という言葉で世界が始まったのだとすると、やはり冬至をもって最初とすべきなのではないか。しかし光あれという「言葉」によって始まったのだとするとペンテコステではないか、とも思える。あれこれ考えていると、個々人の信仰を告白した日、受洗した日なども節目としては重要であるように思えてくる。もしかしたらパウロにとってはクリスマスよりも、再び目が見えるようになった日の方が重要だったのではないだろうか。
 いづれにしても、神の前には人間の節目など、何の意味もなさない。善人悪人の別なく雨を降らせられるということは、曜日も日付も年齢も関係なく、すべからく人の上に恵みを賜り、光を与えて下さるということに違いにない。クリスマスが本当はいつで、今年のイースターはいつか、そしてペンテコステはいつなのか、そんな日付数字に思いを馳せるのではなく、この日を祝う意味を理解し、信仰者として受け止め、生活の場面に喜びと感謝とを映し出す者として、日々の歩みを選び取って行かなければならない。私たちは国の制度に振り回されて、年や年度、年号などに惑わされてしまうことの無いように過ごしたい。神によって定められ、支配されている時のただ中に身も心もどっぷりと浸かっていることを自覚して、教会らしく、主に従う者らしく、神に祈りつつ信仰の節目を押さえつつ、始まりも終わりもすべて神に委ね捧げて今日を精一杯過ごしたい。そしてなにより、救世主の誕生を祝う日としてクリスマスを大切にしつつ、多くの人と喜びを分かち合って、感謝を持ってこの日を迎え過ごしたい。

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