2018年12月30日 信徒奨励日 聖書:コリントの信徒への手紙②5章15~21節 「真心を見つめる」 樋口公子姉

 この一年自分は生まれ変わりたい、新しくされたいと思いました。失望は神様が引き受けてくださったのだから、失望の人生に別れを告げて新しく生まれ変わりたいと思いました。でも願いはなかなか叶いません。それに この一年、自分にはどうしても解決できないことがありました。それは時にとても悲しみをもたらすものでした。                              
私たちは天の造られる前から選ばれて神の子どもとして地上に命が与えられました。ヨハネの福音書15章12節には、イエスが来たのは私たちが喜びに満たされるためだと言っています。喜びを満たすために人生がこの地上で与えられています。わたしたちの願いがかなえられていくということが喜びです。それは神様の約束です。本来人はきれいな心を持っています。しかしその心を大切にしていないし、自分で暗く人を傷つけるようなものに汚しています。でもそのきれいな心が最も人が愛する部分、その人の魅力が湧き出る所、そしてイエス様が最も愛される心ではないでしょうか。そしてそこにイエス様の永遠の命が宿るのかもしれません。喜びに満たされ幸せになるためにそのきれいな心を望みながら、できない矛盾を抱えていたその時に、創世記の話が心に入ってきました。神様に従わなかった時、人はどうしたか。いちじくの葉で自分を隠しました。私に時につらい悲しみを与えた悩みはどうしても人に言えないことでした。だから必死で隠したのです。罪を犯すということはこういうことなのだとその時思いました。そして神様を信じて歩む自分に神様はどうしてこんなことをお与えになるのかずっと分かりませんでした。そんな中で自分で出した答えは、神様は全てご存じでこの状況をお与えになったんだということです。そしてそれは神様が、私の意思で神様に従うようにと言っておられるからなんだと、そして従うように待っておられるのだと、神様は神様に従うことを私に学ばせようとされているということを、そしてそのような状況に置かれたのは神様の御心であったということを。
自分を大切にできないことを行ってしまう。私の苦しみはそういうものでした。それは罪です。自分を悲しませている、それが罪です。お遊戯会で寂しい気持ちで親子を見ていた時、私はその状況にありました。お父さんが愛おしそうに女の子を抱いている。私が最もほしいとても尊いもの。その時、同時に神様の語りかけを感じました。私はこんなにあなたを愛しているんだよ、と。
人は好きなようにしたいと罪びとの衣を着てしまったと言います。自分の好きなようにしたいんだと勝手に実を食べ罪びとの衣を作った、それが今の自分の姿です。そんなわたしたちに神様は何をしてくださったでしょうか。創世記3章21節には、主なる神は人とその妻とのために皮の着物を作って彼らに着せられた。とあります。罪の贖いのための犠牲の皮、それはイエス様の救いを現わしているとも言います。神様は私に救いの衣を着せてくださったのです。自分は大切にされる存在になりたい、だから嘘の心から離れて本当の人生を歩んで、自分が思いもしなかった、こんな幸せなことがあるんだ、と実感できる経験がしたいです。でもそれならば自分は愛される自分に変わっていかなくてはいけません。本来人は喜び幸せを感じて生きるよう祝福されて生まれてきたのです。そしてそれが普通の姿であり、人から苦しめられる関係、ましてやそれを自ら選んでしまっている関係は異常でそういうものは自分から取り除いていかなくては、今の状況は変わっていかないと思いました。そして苦しみを思い出すのではなく、大切にされた経験や、嬉しかった気持ちを思い出し、そうであるべき自分は必ず実現するんだと、そう信じることにしました。
人は色んな願いを持つけれど、一つ一つの小さなことに真心を尽くし、相手を大切に思い、命を入れないなら、ごまかしの外面の衣を着て生きることになります。キリスト教が日本に伝わった時に、愛を「お大切」と訳したように相手を大切に思う真心が神様だと思います。そこには命があります。神様は生きておられるのです。音楽を演奏することも、仕事をすることもその一つ一つの小さなことを大切に真心をもって取り組むこと、それが愛ではないでしょうか。裁く言葉や、傷つける言葉は取り除いて、人の苦しみを覆うような温かい真心を持って願いを実現させていけるようになりたいです。まだまだこれからも旅は続きます。

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