2019年1月6日 聖書:ルカによる福音書4章1~12節  「神のことばで生きる」世良田静江牧師

新年にあたり、何処の聖書箇所がこの一年の始めとして考えますと、やはりみ言葉によって生きることをしているかと問われます。そしてやはりこことになります。「人はパンだけで生きるのではない」と書かれてあります。前の訳では「人の生きるのはパンのみにあらず」だったと思います。よく、軽く私達は“信仰さえあれば”という言葉を言われますと、自分が悩み苦しむのは信仰がないからと思いがちです。“信仰さえあれば”この言葉程立派ですか?どんな信仰をお持ちなのか?と問いたくなります。イエス様はヨルダン川で洗礼を受けられました。その時、み霊が鳩のように下ったその後、荒野へと導かれ誘惑の場所へと来たのです。悪魔はあらゆる試みをつくして、イエス様を試みられました。この後、イエス様の教えが広まったと14・15節に記されています。信仰とは何でしょうか。誘惑や試練から解き放たれるのではなく、むしろその誘惑の中で神の勝利を確かなものにすることだと思います。常に迷い倒れながらも深められ、倒れるごとに神のもとに帰ってゆく。旧約の詩人たちも「苦しみ会ったのは、わたしには良いことでした。わたしはこれによって神のおきてを学ぶことができました」(詩編119篇71節)と言っています。信仰の生涯とはある意味、誘惑の人生でもあります。イエス様がこの荒野で勝ってくださった、その勝利にあずかる人生に他なりません。ですから私達は完璧になってから洗礼を受けようとか、なんでも完全に望んで事を行うこともないのです。パンだけでなく信仰を躓かせることの一番大きなことは物質の貧しさの問題です。そして第二は正反対の富の誘惑です。無い所にも有る所にも誘惑があり、私達は貧しさ故に信仰を失うこともあり、また富ゆえに信仰を失うこともあります。教会内でも時には誘惑があります。誰が教会の主なのか、その人に頼りすぎ、人間の思いばかりが力を増し加わった時、支配しようとする力ばかり目立ちます。本来苦難の中で助けを得るのは神の力と栄光をあらわすためなのに、“信仰さえあれば”と安易に責め合うこともあります。私達の顔に主の輝き満たされた輝きをもちたいものです。
【証】年末に或る方の悩みを聴くため、一晩ともにすごしました。何もかも順調に歩んで来て財産も増え、言うことなしの生活設計が、今、お子様達の中互いでうまくいかずどうしたら良いでしょうか?お互い余りにも自分のプランの在り方を変更できない、自分が正しいのです。結論は?本人が変わること。そこで私の感想一首「静かすぎ語り尽くして夕食の二人の酸素が失くなっていく」

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