2019年1月13日 聖書:ヨハネによる福音書 第12章20節~26節 「一麦多実」 鈴木重宣牧師

 2019年が始まった。100年前の1919年は激動の時代だった。板垣退助が逝去し、漫画家のやなせたかしが生まれ、カルピスの製造販売、コーラの発売も始まった。100年というと古い昔のようではあるが、脈々と現在につながっていることを思わずには居られない。ソビエト社会主義共和国が成立(1月)し、ドイツ労働者党が結党され(1月)、ガンジーが非暴力・不服従運動を始め(4月)、パリ講和会議(第一次世界大戦の終結に関する連合国による半年間に渡る会議)が開かれ(1月)、三・一独立運動が起こり(3月)、皇太子だった昭和天皇が婚約し(6月)、ヴェルサイユ条約が締結され(6月)、中国では国民党が成立し(10月)、アメリカでは禁酒法が制定された(10月)。世界の均衡は不安定なまま、各地では紛争が頻発し、人々の生活は安定せず、不平や不満は高まる一方の一年間だった。この翌年には、アメリカで女性の参政権が認められるが、馬車爆弾によるテロ事件がニューヨークで発生する。歴史は繰り返されると言うが、わずか100年でこうも簡単に繰り返されることがあるのだろうか。政党の成立や皇族の婚約、条約の成立に参政権の拡大、世界初の爆弾テロなど、100年前の出来事なのか、最近の事柄なのか区別がつかないように感じるほど、似通った内容が続く。歴史は「三歩進んで二歩下がる」ようなものなのか。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」人間の愚かさ故のことなのだろうか。
 今日の聖書に出てきた二人の弟子、フィリポとアンデレ。ヨハネによる福音書にこの二人は比較的頻繁にセットで登場する。例えば、6章5節(P136)の5千人の供食において、イエスによって試される弟子として、人間の価値観からの応答をする。また14章8節(P165)において、父を、すなわち神を示して欲しい!とイエスに訴え、その愚かさをイエスによって「わかっていないのか」と叱られる。ヨハネ福音書において、フィリポ、そしてアンデレはおっちょこちょいな人間を表現しているかのよう。そして今日の聖書の箇所。何人かのギリシャ人が、「イエスに会いたい」とフィリポに相談し、フィリポはアンデレに相談し、イエスに話に行く。イエスに会うためにフィリポに仲介を頼み、紹介してくれと言っているように。直接イエスに会うのではなく、一旦フィリポに相談するというのは一見不自然にも見える。しかし彼らはギリシャ人であり異邦人として位置づけられる存在であったため、仲介を頼まざるを得なかった。そしておっちょこちょいで人間的なミスを犯しやすそうにも見えるフィリポが、ギリシャ人とイエスの面会の仲介する。注解書によれば、フィリポとアンデレという名は、ギリシャ人名なのだとか。つまり彼らは、おそらくギリシャ語あるいはギリシャ文化に接するような背景を持った弟子達であったということ。とすれば、ギリシャ人の仲介者として白羽の矢が立って当然だった。言葉が通じるなら、文化を知る者なら、仲介者として申し分ない。しかもおっちょこちょいな二人。異邦人をイエスの元に連れて行くなど、当時のユダヤ社会では到底考えられない行いだった。そんなおっちょこちょいだったからこそ、イエスは異邦人と出会うことが出来た、と言えなくもないのではないか。この数人のギリシャ人たち。繰り返しになるが、ユダヤ社会においては、異邦人と位置づけられ、選民思想という背景から、低い身分の存在として見られてた。ユダヤ社会において後ろに置かれているギリシャ人がまさに、「イエスの後に従った」さまが描かれている。時のエリートではなく、低い身分に置かれている人が、イエスに捕らえられ、信仰に導かれていく。
 野宿者、障害者、在日外国人、怪我人、病人、働けない人、学歴が低いとされる人、低所得者、部落の人、女性、外国人労働者、研修生、累犯障がい者・高齢者。挙げればきりがないほどに、その価値を不当に低くされている人達がいます。その人達とつながると言うことは、そこにおいて自分の事を自慢するのではなく、上からではなく同じ高さで話せる関係を作ると言うことです。フィリポがギリシャ人に相談されたのは、偶然ではなく、彼がそのギリシャ人を理解できる立場にいたからです。その声が聞こえる人であったからです。私たちは一体誰の声を聞き、共にイエスに出会うことが出来るのでしょうか。世の価値を追い求めていては、聞こえるものも聞こえなくなってしまいます。愚かさを繰り返すのでは無く、自らの立場を低くする事に心を砕き、違う立場の者と向き合うことを避けない。つねに相手のことを尊重し、配慮し、認める。そのような者でありたい。そしてその声を聞き逃してしまう事のないよう、信仰のアンテナをピンとはって、日々過ごすことが出来るよう祈ります。

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