2019年1月20日 聖書:マタイによる福音書16章13節~28節「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」川本良明牧師

 新しい年になり、すでに新しい歩みを始めておられると思います。私自身も、今お読みした聖書の言葉をもって宮田教会との交わりを始めたいと思います。
 ある時イエスは、<世間では、わたしのことを何と言っているか>と弟子たちに尋ねました。彼らが、洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だと言ってますと答えると、ずばり、<それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。>と尋ねられました。イエスは私たちに、自分自身とか他の人ではなく、わたしを何者だと言うのか、と言ってご自分に目を向けさせます。
 私たちは、いろんなものを支えにして生活していますが、老衰や病気やいろんな力でそれを剥ぎ取られて、何もかも失って丸裸になった自分を哲学的に言えば実存といいます。イエスが彼らに迫ったのは、彼らの実存に対してでした。
 考えてみると、イエス自身、十字架の上で、服はもちろん神の栄光も力も命までも剥ぎ取られました。だからこそ彼の言葉は、いつの時代の人にも、どんな国やどんな民族の人たちに対しても、どんな職業あるいは社会的身分や性別などの一切を問わないで、人間ならば誰にでも届く神の言葉であります。このイエスが今まさに問うているのです。<あなたはわたしを何者だと言うのか>。

 さてこの問いにペトロは、<あなたは、メシア、生ける神の子です。>と答えました。これに対してイエスは、<シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。>そしてつづけて、<わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。>と告げました。あなたがそのように告白したのは、あなた自身の力や経験や知恵ではなく、わたしの天の父である。そしてつづけて、<わたしも言っておく>と言われることによって、じつにイエスは、自分が天の父とまったく一つであることを示されたのです。そしてこの天の父が、イエスを救い主と信じる人々の共同体つまり教会を地上に建てるときが、ついにいよいよ来たのだ、という彼の喜びが伝わってくるようです。

 ところがこの後、イエスは驚くようなことを打ち明けました。<自分は必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。>それは弟子たちにとって、あまりにも衝撃的な言葉でした。ペトロは即座に言いました。<主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません!>。これまでイエスの数多くの奇跡や不思議なわざをずっと見てきて、<あなたは救い主です>と素直に告白した彼の思いが木っ端みじんにされたことはたしかです。しかしペトロがみんなを代表して「主よ、とんでもないことです」と叫ぶように言ったのは、たまらなかったからではないか。イエスの言葉に躓いて、大勢の人たちが去って行くことがあっても、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。」と言ってイエスのもとにとどまった彼らにとって、愛するイエスとのつながりが切れることはたまりませんでした。

 これに対してイエスは、<サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。>ときびしく叱りました。それは弟子たちに対するイエスの抑えがたい憐れみと愛がほとばしり出た瞬間でありました。イエスは口には出しませんでしたが、私たちは彼がどのようなお方であるか多少なりとも知っています。神の身分でありながら、とことんへりくだって人間と同じになるために家畜小屋で生まれたお方であること、それから公の活動を始めるまでの30年間をどのように過ごされたか、聖書を通して私たちは知っています。
 彼は<キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある父なる神に、祈りと願いとをささげられた>お方です。神に背き、その罪のために堕落し、悲惨と破滅を招いてしまっている現実から私たちを救い出すには、どうしても罪に対する神の容赦のない裁きを私たちに代わって裁かれねばなりませんでした。そのために彼は、単に人間になったのではなく、私たちと同じ肉のさまとなってこの世に来られたのです。そして肉を滅ぼして霊の体を与えて、私たちを、神を愛し隣人を愛する人間にするという天の父の意志を成し遂げること、そのことは断じて妨げられてはならなかったのです。

 しかしイエスは、このすぐ後、<わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。>と命じられました。イエスは、自分の秘密を聞いて彼らがどんな思いになったか痛いほど分かっていました。だからこそイエスは、自分のもとにもっと引き寄せ、もっとつながりを深めさせるためにこのことを言われたのです。ただしイエスは、ご自分の十字架を背負うようにとは命じていません。イエスは、ご自分と同じ十字架ではなくて、自分自身の十字架を背負って従ってくるように命じられているのです。
 また、<自分を捨て、わたしに従いなさい>という言葉も正しく聞かねばなりません。自分らしく生きたいと願いながらも難しいのはなぜか。それは、自分を自分で捨てることができないからです。人は自分を捨てることはできません。なぜなら自分を捨てようとすると、もっと強い捨てる自分が現われてくるからです。どこの世界でも難しいのは人間関係だとよく耳にします。人に仕えるとか自分を捨てて人に尽くすとか、美しい言葉です。しかしそれができないのが私たちの正直な姿です。けれどもほかのだれでもなくイエスに従っていくならば、自ずから自分を捨てる者となっている、捨てることができる人間にされていく、だから、<自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。>と言われるのです。

 ところがこの言葉を聞くとき、悲壮で深刻な思いになるのは避けられません。しかしイエスは、むしろ自由で、明るく、広く、すばらしい約束を秘めて、弟子たちに、そして私たちに語っていることに気づきたいと思います。まずイエスが受難の予告の際、必ず、<三日の後に復活することになっている>と語っていることです。また先ほど読んだ聖書の個所の後半からの言葉です。これはマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書のどれも共通して書かれています。<自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。>など、命のことにふれて、最後に、<ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現われるのを、見るまでは決して死なない者がいる>と謎めいた言葉で締めくくった後、つづけて、どの福音書も伝えているおどろくべき出来事です。それはイエスがペトロとヨハネとヤコブの三人を連れだって高い山に登ると、突然、<イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。>そしてモーセとエリヤが現れたという、いわゆる山上の変貌の出来事です。

 「イエスが多くの奇跡を行なっているのは、彼が神だからだ」と言うと、「いや神から特別な力を与えられて奇跡を行なったているのであって、彼は人間だ」という反論があります。たしかに聖書もそのように書いています。イエスの奇跡を見た人々は、おどろいて、「彼は神から特別な力を授けられた預言者だ」と言って神を讃えています。イエスを讃えたとは書いていません。先ほどイエスの問いに答えた弟子たちも皆、預言者を名前をあげています。
 ヨハネもエレミヤもエリヤも皆、普通の罪深い人間です。神は、その彼らを預言者に立て、彼らを通して言葉を語り奇跡を行ないます。ところが山上の変貌はイエス自身の身に起こっている奇跡であって、彼が神であることを示しています。これは復活を先取りする出来事です。この後、イエスは元の姿に戻り、山から降りるとき、今起こった出来事をわたしが復活する迄はだれにもいってはいけないと口止めしています。ここで問題となっているのは、イエスは肉のさまとなった神、とことんへりくだって人間となった神であるということです。

 ペトロはイエスに、<あなたは生ける神の子です>と答えました。このときペトロが描いていた神の子とイエス御自身とのちがいは、やがてはっきりとなってきます。イエスの受難が近づくにつれて、弟子たちの間に、「だれが一番偉いか」というはげしい対立が起こりました。それを見てイエスは、「あなたがたは人を使うような人間になってはいけない。あなたがたの間で偉くなりたいなら、わたしが仕えられるためではなく仕えるために来たように、仕える者となりなさい」と云われました。それこそイエスとのつながりを深くし、イエスへの愛をもとにした、互いに愛し合う共同体を建てていくことになる。だから、仕えるということが教会の岩、土台である、とイエスは言われたのです。

 背負わねばならない十字架の道は、一人ひとり、苦しい思いをもってたどらなければならないと思うのですが、しかしそれがどんな道であろうとも、復活の光に照らされた喜びと希望に溢れた道であることは確かです。なぜなら、私たちの十字架は、イエスが負われた十字架とは比べものになりませんが、イエスの十字架の徴だからです。私たちは罪の現実に苦しめられていますが、後にペトロは次のように語っています。<キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪との関わりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。>(Ⅰペトロ4:1~2)
 イエスがあるとき、外から入るものが人を汚すのではなく、中から出てくるものが人を汚す、つまり、みだらな行ない、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、妬み、悪口などが中から出て来て人を汚すのだ、と言われたように、悪い思いに苦しむこと、これが「肉に苦しむ」ということです。けれどもペトロは、肉に苦しむということにおいて私たちは、じつは罪との関わりが絶たれているということなのだ、と言っているのです。これはすごい慰めの言葉だと思います。

 肉の思いで苦しみ、それから逃れたいとか助けてくれとかいろいろありますが、聖書は、キリストも肉に苦しみをお受けになった、そのことを知り、心構えとして持っておきなさい、肉に苦しみを受けた者は罪との関わりを絶った者で、肉における残りの生涯を私たちは生きることになっている、と言っているのです。肉の苦しみを受ける、それが罪の現実に苦しむ私たちの姿です。
 ところで復活物語を読みますと、イエスは山上の変貌の姿で現れてはいません。白く輝く姿で現れたのはすべて天使であって、復活したイエスは復活以前の彼と同じです。しかし、単にもとの彼ではなく、十字架の死において肉を滅ぼしたお方であり、肉の支配から解放され、肉と肉の死に勝利したイエスです。
 その勝利者イエスが、聖霊として今、教会を建てられ、一人ひとりに聖霊として宿って下さっています。イエスを信じて十字架の死にあずかり、復活にあずかるとき、私たちは、肉の体の古い命の支配から自由にされると共に新しい霊の体に移されて生きることが約束されているし、生きることが許されています。その希望に共にあずかりながら、新しい歩みを進めていきたいと思います。

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