2019年2月17日 聖書:ヨハネによる福音書20章24~29節「信じるということ」豊田護兄

 見て確かめるということは、「知る」という行為に似ています。しかし「知った」と言うことは、必ずしも「理解した」とはつながりません。

例えば「倭人」という古い言葉は、皆さん良く耳にしますが、その本来の意味はあまり知られてはいません。「倭人」とは、入れ墨をしていてすぐに人前で裸になり刀を振り回す、礼義を知らない野蛮な人間という意味です。韓国や朝鮮半島の人達や中国の人達にとって、この倭人は何をしてきたか、倭寇に始まり秀吉による朝鮮侵略そして日韓併合にいたるまで酷いものです。知識としては知っているし学校の歴史でも習いますが、被害者の朝鮮半島の人達や中国の側の心情について理解している人は、あまり多いとは言えませんし学校でも教えません。知識とはこの程度の物で、理解とはほど遠いものです。

「神」という見えない物を理解できるのでしょうか、昔ソクラテスを学んだとき「無知の知」というのがありました。知らないということを知ることこそが大切だというのです。そして人にとって最も大切な事を「徳」とするなら、それは知識ではないから教えられないと述べています。それは「感じとる」ものだと言います。子どもは特に赤ちゃんは、相手が自分を「愛しているか」を言葉ではなく感じとります。決して「知る」のではありません。なぜなら「言葉」には嘘あり、「知識」にも嘘があり間違えが多いからです。人は長い進化の過程でそのことを身にしみて「知って」ています。一番信頼出来るのは 「感じる力」なのです。

「信じる」とは、見て確かめて知ることではなく、感じるということです。人は死にます。生き返りません。にもかかわらず「生き返る」「よみがえる」というのです。このことが理解できますか。知識や理解に縛られている私たちにそれを飛び越えることができるでしょうか。それを理解ではなく、「信じる」ことによって飛び越え無ければなりません。それは恋した時の「愛」に似ているかもしれません。理屈なく愛を感じて信じる。人から何と言われようと、一人になっても、世界を敵に回しても信じ愛する。これこそが「信じる」ということではないでしょうか。今私たちは本当に「信じる」ことができているでしょうか。

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