2019年3月3日 聖書:創世記5:21~24、ヨハネ11:38~44 「死を覚え、主と共に生きよ」川本良明牧師

 あるときイエスは弟子たちに、<わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。>と言われました。十字架は、キリストとキリスト者との関係を最も具体的に現わすものです。しかしイエスは、イエスご自身の十字架を背負ってではなくて、各々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい、と言われました。自分の十字架を背負っていく私たちは、いろんな不従順な思いや行ないをともないながら歩いています。しかしたとえどんなわざであっても、自分を捨て、イエスの招きに応えているのであれば、その十字架はイエスの十字架のしるしであって、キリストの苦しみにあずかることがゆるされており、キリストの似姿に変えられ、証しすることを許されています。

 皆さんにとって、背負うべき自分の十字架は何でしょうか…。背負うべき自分の十字架は、人それぞれですが、私にとっては、死の恐怖でした。瀬戸内海の周防大島の小さな村で私は生まれたのですが、4才のある朝、母親が雨戸を開けて朝日が射し込んだとき、突然、「たとえ永遠に生きていようとも、その先はどうなのか。」という疑問が湧き、その疑問を凝視したまま、「その先は? その先は?」と恐怖の中で問うていくのです。そしてそのまま闇の谷に落ちていきながら「どんなにもがいても、それしかないのだ」という一点に全神経が凝縮したまま、もがきながら、ふっと楽しいことに心をそらした途端、消えてしまい、もう一度同じ感情になろうと努力しても戻ることができない。そういう鮮明な思いは、その後も予告なしに突然襲って来て、50才頃まで繰り返されてきました。

 この恐怖はおそらく無を予感しているのではないかと思うのですが、たとえ永遠に生きようとも、永遠自体が消滅します。「神と共に永遠に生きる」という言葉は、希望があるように見えますが、その神自体が最終的には無となるので希望にはなりません。しかもこの予感が、今、ここで、すでに力を振るって私を恐怖に落としていくのです。そうすると途端に手つかずになるわけです。
 少年のころ、「夕飯よ~」とお袋が呼びに来たとき、私が壁に寄ってじっと固まっているのを見て、「あんた、どうしたんね」と訊くと「死んだらどうなるんね」「なん、ばかなこと言うんね」の一言です。お袋もどうしていいか分からんのです。このように私はこの恐怖を長い間、「死んだらどうなるんだろうか」という言葉で表現していたのですが、これが死の恐怖であると認めるまでにはかなり時間がかかりました。「永遠であろうとそれしかない、無だからだ」という、そういう何か表現できないものですが、おそらくそれは死の恐怖です。

 そしてさらにこの恐怖が、自分が神の被造物であること、自分が神に造られたものであるということを認めないで、限られた時間に生きる存在であるということを受け入れないで、それに抵抗している根源的な罪、それがもたらしているのだということに気づかされたとき、やっと恐怖から解放される光が見えてきたのです。なぜ私はあのような恐怖に襲われるのか、それは根源的には私の罪から来ているのだ。その罪とは、具体的には、限られた時間に生きる命として神に造られた存在であることを受け容れないで抵抗していることです。この根源的な罪に気づかされたことで、やっと解放される光が見えてきたのです。そしてそれと同時に、それ以上に大きな恵みであったのは、聖書が死について語っている真理の言葉に耳を傾けることができたことでありました。

 <初めに、神は天地を創造された。>聖書の冒頭の言葉こそ神が世界に語りかけた最初のすばらしい恵みの言葉です。この言葉によって神は、私たちが神に造られたものであると語り、偶然の存在ではなく、かならず意味と目的のある存在であると語っています。しかも単に存在するだけでなく、人間は、神を愛し、隣人を愛し、精神の体として統一し、限りある時間に生きる存在として造られていることを、神はイエス・キリストにおいて示されました。それは世の中の一般的にある、「人間とはこうだ」という人間論ではなくて、神が具体的にイエス・キリストによって示された人間論です。ですから、限りある時間に生きて死を迎えることは、神の善きわざなのです。ところが私たちは、その死を恐れます。たしかに死をあなどることはできません。不気味で暗い力として避けています。病気や墓場や戦争など、いろんなことをとおして死を予感しておびえ、不安になります。そしてそれは、神に背き、神に敵対し、神に無関心である私たちの罪が招いている結果であるということを、神は、イエス・キリストにおいて示されたのです。

 すなわち神は、ご自分に、天のお父さんと呼びかけ、まったく従順に、みじんも罪を犯すことのないイエスを、神に背き、敵である私たちすべての罪を裁くために、十字架において死なせたのです。本来イエスは、このような死ではなく、限りある時間に生きて、自然の死を死ぬことができたはずです。しかし彼は、私たちをおびえさせ、生きる希望を失わせる死の力を、ご自分が十字架に死ぬことによって滅ぼすことが父なる神の御心であることを知って、あの呪いの十字架を背負って行かれたのです。イエスはその死において、私たち人間の命が、地獄に向かって断罪されているという、まさに私たちの死の正体を暴露されたのです。あのイエスの死は、単なる十字架の死、私たちと同じ死ではありません。私たちの死の根源的な問題を暴露し、しかも暴露するだけでなく、それを滅ぼしたのです。永遠の死を、永遠の無を滅ぼした、それがイエスの成し遂げられたことです。

 ですから万が一イエス・キリストが、私たちのために苦しんでくださらなかったなら、私たちがかならず迎える死は、それこそただ恐れるしかない永遠の無、永遠の消滅、ヨハネ黙示録2章や20章で語っている「第二の死」以外の何ものでもありません。その死を、イエスは、私たちのために、私たちに代わって、その身に引き受けてくださって、十字架に死ぬことによって、私たちの永遠の死を打ち破り、甦えって死に勝利されました。このイエスを信じ、受け入れるとき、私たちは永遠の死から解放されて、神の本来の善き業として死を迎えることができる者とされます。そして命を、限りある時間に生きる命として、また神から賜わった恵みとして、認識することができます。そしてまた、生きている今、肉の命にありながら霊の命をいただいて、神の内にあって永遠に生きる約束のもとに生活することが許されるのであります。

 このように聖書は、2つの死について語っています。1つは、限りある時間に生きる命の終わりの死です。神が天地を創造されたとき、人間を創造されたことが創世記1章で書かれています。この最初の創造のわざによって造られた人間は、いつかは死にます。けれどもそれは限られた時間に生きるめぐみの死なのです。それに対して今1つの死は、罪に対する神による裁きとしての死です。アダムの犯した罪以来、裁きとしての恐るべき死を、聖書は一貫して語っています。けれども同じように、神の善きわざとしての死もまた多く語っているのであります。

 たとえば、臨終のダビデが息子のソロモンに、<「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。」>(Ⅰ列王上2:2)と語っています。明らかにこれはまったく死を呪いと見ていません。あるいはアブラハムについて、<アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。>(創世25:8)とあります。これも避けられない悲しい諦めの死ではなく、満ち足りた人生の目標に達して死を迎えています。新約聖書のヨハネ黙示録では、<耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。>(2:11)と書いています。迫害の中にあってつぎつぎにクリスチャンたちが死んでいくのですが、迫害によって死を迎えねばならないにもかかわらず、「第二の死」は何の危害も受けない人たちのことを伝えています。

 そしてさらに、死が最高に特別な光の中に移されている人間を旧約聖書は語っています。それが先ほどお読みした創世記5章のエノクです。<エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった>(22~24)。ここには裁きとしての死の性格はまったくなくて、死を見ず、彼も気づかないうちに死の限界を越えていき、移されています。新約聖書のヘブライ人への手紙にもエノクのことが紹介されています。これもまた捉え方がすごいなと思うのですが、しかし新約聖書の世界になると旧約聖書の比ではありません。第二の死は無きに等しく、皆善きわざとしての死を迎えながら眠りにつくことが繰り返されています。それはともかく、ヘブライ人の手紙11章には、<信仰によってエノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです>(5節)と書かれています。もちろん間接的にこれは彼が死んだことを語っているのですが、まったく恐れも闇もない、喜びのうちに死んだというのです。

 他にも代表的な人にモーセがいます。<モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。>(34:7)と申命記の最後に書いています。「死んだ」と書いていますが、私たちが恐れる死ではなく、生き生きと、成し遂げることを成し遂げたという中で神に取られていったのです。さらに極めつけは、預言者エリアです。彼の場合は、自分がしたことを弟子のエリシャにすべて継承させることが成し遂げたことであって、<彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。>(列王記下2:11)と紹介されています。

 このようにエリヤやモーセもふくめて聖書には驚くようなことが聖書に書かれていますが、しかし、神に罪を犯し、神の敵であるすべての人間は、こういう仕方で世を去ることはできません。皆、裁きとしての死を死ぬことができるだけです。にもかかわらず平和と喜びのうちに世を去ることができるのは、神の特別な力が介入しなければ起こらないのです。しかし、今挙げた例のように、本来人間は自然な終りがあることが、聖書の証言によって知ることができるのです。

 しかし、そのためにイエス・キリストの計り知れない愛のわざを覚えたいと思います。間もなく迎えることになる、あの呪いの十字架を見すえながらイエスが示された物語の一つが、先ほど読んだヨハネ福音書11章のラザロの復活の物語です。この直前にラザロの姉のマルタが、<「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。>(21節)と言うと、<「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」>(25)と語ります。そして妹のマリアがイエスの足もとにひれ伏して泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、<心に憤りを覚え>(33)、どこに葬ったのかと訊くと、イエスはハラハラと涙を流され、そしてもう一度、<心に憤りを覚えて>(38)墓に来られたのです。この<心に憤りを覚える>という言葉は、死と死の背後にあるものに対する憤りを表しているのであって、それこそ第二の死、裁きの死を引き受け、滅ぼすイエスの、私たちのための、私たちに対する震えるほどの愛を感じるがゆえにはげしく死を怒っている言葉です。この神の特別な力の介入なしには起こらない、この神の力こそイエス・キリストの死と甦えりであります。私たちは「第二の死」から解放される、そのためにイエスの死と甦えりがあることを喜びたいと思います。そして第二の死からの解放は、永遠の生命への解放であります。そして自然の死に向かっての解放です。これからも死を覚え、イエスと共に生きて行きましょう。

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