2019年4月14日 聖書:エフェソ信徒への手紙6章10~20節 「私たちの戦い」豊田護兄

 私はこの聖書の箇所を読み、この聖書の説教を聴いて洗礼を受けました。漠然とでしたが、目に見えない力と闘うには信仰が必要だと思ったからです。「戦う」とは何を意味しているのでしょうか。

 昨日服部清さんが亡くなりました。清さんは何と戦ったのでしょう。牧師をやめてペンキ屋になる時、奥さんは「なぜペンキ屋になるのですか」と尋ねたそうです。すると「ペンキ屋は、自分が汚れれば汚れるほど頼まれた仕事は美しくなる、働けば働くほど相手は幸せになる仕事だから」と答えたそうです。
教団は、筑豊地域の宮田教会はつぶれてもよいと言い放ち宮田の教会を切り捨てようとしました。これに対する答えと戦いが、清さんのペンキ屋への転身でもありました。私たちの戦わなければならない敵は、直ぐ近くにいるのです。

私の父も服部先生と同じように炭鉱に潜って炭を掘る労働者でした。その後製鉄所の職工でした。父も父なりに戦っていたようでした。小さいときによくメーデーのデモについて行って労働歌を唄いながら歩きました。その頃から目に見えない敵がいて、子ども心にも「戦わなければ」という意識が芽生えていたように思えます。

私も一人前の労働者になりました。父達のようなブルーカラーではなく、ホワイトカラーの軟弱な労働者ではありますが労働者の端くれだとは思っています。戦う相手は、権力であったり、世の中であったり、自分自身であったりと、様々な場面で戦わなければならないということがやっとわかってきました。何も考えず、世の中や社会に対して疑問や問題意識を持たずに生きて行くことは、クリスチャンとしては恥ずべき事ではないでしょうか。キリストは最下層労働者だったし、その生き方は、まさに戦いでしたのに。

5月1日は新天皇の即位だとしてお休みです。この日はメーデーです。労働者のために今まで決して休みにしなかったのに、なんかおかしいです。労働者を馬鹿にしていると思いませんか。ここにまた大きな戦いが生まれようとしています。見えない敵はひたひたと私たちをむしばもうとしているのです。私たちはしっかりと働くことにより日々の戦いをしていかなければなりません。それがクリスチャンとしての戦いだと思います。

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