2019年4月21日 聖書:出エジプト12:37~39、ルカ24:13~35 「イエスは復活させられた」川本良明牧師

 今月初めに新しい元号が発表されると「新しい時代が来てほしい」という言葉を多く報道していましたが、この世の新しい時代は相対的なものです。私たちは、絶対的で永遠に揺るぎのない、本当の新しい時代は、イエス・キリストの十字架の死とイエスの甦えりの出来事によってもたらされたことを知っており、また信じています。今日はそのイエスの復活を祝う日であります。しかし私たちは、かつて復活したイエスに出会って驚愕した婦人たちと同じように驚愕しているでしょうか。もしそうでないとすれば、何がそれを妨げているのかを真剣に考えなければなりません。古代人の世界観でもある神話の1つと見ているためにイエスの復活を聞いても驚かず、慣れてしまっているからでしょうか。あるいはパレスチナで二千年前起こった時間と空間の隔たりがあるから驚かないのでしょうか。それとも死は絶対であり、死者の復活などありえないからでしょうか。これらは皆、自分自身の中で起こっている神の恵みに対する抵抗あるいは反抗であります。神話とか世界観については学者たちにおまかせします。しかし時間と空間の隔たりや死を絶対とすることは今に始まったことではなく、初代の教会の兄弟姉妹たちにとっても私たちと同じでした。そのことを、先ほどお読みしたエマオの物語から見てみたいと思います。

 イエスが十字架に死んで三日目のことでした。二人の人がエルサレムからおよそ11㎞離れたエマオ村に向かっていました。一人はクレオパという人で、二人は話し合い論じ合っていました。おそらく空の墓について論じていたのではないかと思います。そこへイエスご自身が近づいて来て、「何を熱心に話していたのですか」と尋ねると、二人はおどろいて立ち止まり彼を見ました。ユダヤ最大の過越祭のときで海外からも大勢のユダヤ人たちが集まっており、その中の一人と見たからです。クレオパは言いました。「都に滞在していながら知らないのですか。」…そして彼はこの数日間に起こったことを語りました。

 「ナザレのイエスというお方は、力ある預言者でした。この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。それなのに、祭司長たちや議員たちが十字架につけて殺したのです。もう3日にもなります。」…過去をふり返り、過去にとどまっている姿が伝わってきます。そして彼は続けました。「ところが、仲間の婦人たちが私たちを驚かせました。朝早く墓へ行ったところ、遺体がなかったのです。ところが天使たちが現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと言うんです。それで仲間の者たちが墓へ行ったところ、たしかにあの方は見当たりませんでした。」…過去から脱け出ないだけでなく、この新しいことを聞いても何も変わらないのはなぜでしょうか。それは二人にとって死は絶対だからです。それは使徒たちも同じでした。先ほどの手前の個所ですが、婦人たちが一部始終を話しても、<使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった>(11節)と書いています。エルサレムを後にしてエマオに向かう二人の姿は、婦人たちとは対照的で、何の希望も失っていることを象徴しています。

 その二人にイエスは言われました。<ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。>…彼女たちの報告を信じないだけでなく、知っていたはずの預言者の言葉も信じない。だからイエスは彼らを叱ったのです。そしてイエスは、旧約聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されたのでした。このとき、おそらく二人は心が燃えていたはずです。ところが目指す村に着いたとき、また元に戻ってしまった、つまりイエスの語ったことは「たわ言」になったのです。そういう<二人の目が開け、イエスだと分かった>のは、特別に何か新しいことをしたのではなく、<一緒に食事の席に着いたとき、イエスがパンを取り、讃美の祈りと唱え、パンを裂いてお渡しになった>ことでした。これは、十字架に死ぬすぐ前に、イエスが弟子たちと行なった過越の食事の場面の再現です。

 過越の食事とは、先ほどお読みした出エジプト記が伝えている出来事です。古代エジプトでイスラエルの人々が奴隷として過酷な扱いを受けていました。もちろん彼らは黙っていたわけではありません。しかし出エジプト記2章23節には、<労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた>とあります。これはあらゆる抵抗をしたんだけども、万策尽きて、神に頼るしかなく、神に叫び求めたことを示しています。そこで神は彼らの叫びに応えて立ち上がり、モーセを用いて神ご自身がエジプトと戦い、ついにイスラエルの民をエジプトから解放するのですが、その解放される直前に行なったのが過越の食事です。
 この過越の食事が再現されたとき、二人の無理解の厚い壁は打ち破られました。だから暗い顔は消え、食事もしないでエルサレムの十一弟子と仲間たちのところに戻りました。そのとき二人が何よりも報告しなければならなかったことは、<道で起こったこととパンを裂いて下さったときにイエスだと分かった>ことでした。

 それを聞いていたペトロは、ありありと思い出しました。それはイエスと自分たち三人で高い山に登ったときのことです。突然イエスの姿が輝いたのを見た彼は動転して、「先生、ここに幕屋を建てましょう」と言っていると、雲が現われ、「これは私の子、これに聞け」という神の声がしたとき、元の姿のイエスだけがそこにおられた。そして山を降りるとき、「私が復活するときまで、今のことをだれにも言ってはいけない」とイエスが言われたという出来事です。そこでペトロは思ったのです。「もともとイエスにはそういう力がおありだったのだ。たしかに病人を治し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせるなど、多くの奇跡や不思議なわざをされるのを見てきた。それにイエスは、輝く衣を着た姿であることも、ふつうの人間の姿であることも、見えなくなることも、まったく自由に生きておられる。そんなイエスがなぜ自分から進んで十字架に死んでいったのだろうか?……」。 これに対して教会は、伝統的に3つの比喩で説明してきました。イエスが私たちのためになさった十字架の死について、ああじゃこうじゃと完全に表現することなど比喩でしか私たちにはできません。ですから教会は比喩で考えてきました。1つは<裁きとしての刑罰という法律的な面>、今1つは<完全な犠牲による贖いという祭儀的な面>、そして今一つは<悪魔との戦いによる勝利という軍事的な面>、この3つで表現してきました。

 このうち法律的な面と祭儀的な面は教会ではよく取り上げ話されてきましたが、悪魔との戦いの勝利という面は、ほとんど語られないのではないかと思います。しかし私たちを憐れむ神の御子は、とことんへりくだって、肉となって、人間イエスとなって、罪と死でおびえさせる闇、悪、私たちの内にある暗いもの、それに対して戦って、十字架に死ぬことによって、それを滅ぼしたのです。しかもそれが初めから神の計画であって、その戦いが完全な勝利であったことを、神は、イエスを復活させることによって宣言されました。それが復活の意味です。このようにイエスは、十字架において、罪と死と戦って、完全に勝利されたのであります。しかしその戦いはまだ終わっていません。今も続いています。完全に勝利した人間として復活したイエスは、天の父のもとにあって、聖霊として私たちの内にあって、私たちの中にある罪と死と悪と戦われているのであります。

 その戦いによって私たちにどういうことが起こるのでしょうか。これについてラザロの復活物語を思い返していただきたいのです。ラザロが死んで墓に納められて4日経っていました。イエスが来られたとき、ラザロの姉のマルタがイエスに言いました。「主よ、もう少し早く来られていたらラザロは死ななかったのです」。そこでイエスが「わたしは復活であり、命である。あなたはこれを信じるか」と言うと、マルタは「主よ、信じます」と言いました。ところが墓に行ってイエスが「墓を開けなさい」と言うと、マルタは「主よ、もう4日も経って臭くなっています」と言うのです。そこでイエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言って信仰を促しました。つまり、最初は「信じます」と言ったマルタが、墓に来ると「もう4日も経って臭くなっています」と信仰が後退しています。その彼女にイエスは「こう言っておいたではないか」と信仰を促して前進させるのです。このように、後退すると前進させる、後退すると前進させるというくり返しの中で、じつはイエスが私たちの中で戦って前進させているのです。

 これまでキリスト者の死を見てきましたが、皆、勝利の凱旋をしています。イエスと共にあって生きて終わりが来たとき、イエスの手の中に落ちていくことが、キリスト者の本当に祝福された死であると思わずにはおれません。けれどもなぜ凱旋することができるのか。それはまさに主イエスが私たちの内にあって、肉の命から霊の命に移っていくために、イエスご自身が戦ってくださっていて、後退するけどもまた一歩、後退するけどもまた一歩ということで、ついに終わりの時が来たときに、安らかに平安のうちにイエスのもとに受けとめられていくことが起こってくるのです。クレオパたちもそうでした。イエスから聖書の説明を聞いたとき心が燃えていたはずです。しかし目ざす村に着いたとき、イエスが客人で彼らが主人という立場になっていて、彼らは元に戻ってしまいました。けれどもイエスは、彼らが無理矢理に勧めるのを受け入れて泊まって、過越の場面を再現しました。そこで彼らはハッと気がついて、元に戻って、暗い顔はなくなり、積極的に、輝く顔で、エルサレムに戻っていくことができたのです。今私たちはイースターを迎えていますが、復活したイエスが私たちと共にあって、わたしたちの中において、悪と死と戦いながら、私たちを戻っては前へ、戻っては前へと、私たちを導いてくださっていることを、あらためて感謝をもって受けとめたいと思います。

聖書のお話