2019年5月12日 聖書エレミヤ書:31章31~34節 ヨハネによる福音書:1章14節「完成された契約」川本明郎牧師

 今日はイースターから40日の間、イエスが復活されて弟子たちの間で過ごされた期間を過ごしています。それにふさわしい御言葉を聞くことができることを感謝申し上げます。聖書は旧約聖書と新約聖書から成っていることはご存じですが、「旧約」というのは「古い契約」、また「新約」というのは「新しい契約」という意味です。「契約を結ぶ」とは、約束したことを互いに守るということですが、聖書が契約というときには、神と人間の間に結ばれた契約ということを指しています。もちろん神と人間が同等の立場で結ぶのではなくて、まず神の方から契約が示されて、それを人間が受け容れるという関係で結ばれるものであります。その神が示した恵みの契約について、先ほどお読みしたエレミヤ31章31節以下の預言の言葉から考えて見たいと思います。ここには古い契約と新しい契約のことが語られています。

 <見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。>「かつて結んだもの」というのは「エジプトの地から導き出したときに結んだもの」と書かれてありますように、エジプトを出てシナイ山の麓に来たときにモーセを通して神が授けた十戒を指しています。それは出エジプト記20章1~17節(p.126)に書かれています。2節に前文が書かれていまして、3~17節に神への戒めと人間への戒めの合わせて10の戒めが書かれています。神が示し、イスラエルの民がそれを受け容れるという関係は具体的には次のようになります。まず前文を見ますと、神がイスラエルの民に、<わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。>と語ります。つまり「(神である)私は、エジプトで奴隷として苦しんでいるあなたがたを憐れんで、そこから解放しました。この私を自分たちの神として選び、愛しますか?」と言うのです。すると彼らは、「私たちを長い間、奴隷身分として苦しんできました。そういう私たちを解放してくださったあなたこそ私たちの神です」と答えました。そこで神は、「そうか、それでは<あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。刻んだ像を造ってはならない。…>と言って、神への戒めを次々と語り、また<あなたは殺してはならない。姦淫してはならない。…>と言って隣人への戒めを守るように求め、こうして神とイスラエルの間に契約が結ばれたのであります。

 ところがエレミヤの預言を見ると神は語るのです。<わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った。>「契約を破った」という事実は、旧約聖書のどこを見ても目にすることができます。偶像を拝む、富と権力に奢るなど、十戒の戒めを次々と破っていった結果、堕落、悲惨、怠慢、虚偽がはびこり、ついに国が南北に分裂し、互いに戦争し、アッシリアやバビロニアなどの大国によって国を滅ぼされ、ついに捕囚の身となるという破滅を招くことになりました。
 この神による恐るべき裁きによって、彼らの歴史は終わってもよかったし、神には契約を破った彼らを生かしておく義務はありません。ところが、このとき神がエレミヤを通して語ったのは次のような言葉でした。<しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである>というものでした。この「来たるべき日」というのが、今日最初にお読みした<見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る>と語った「新しい契約を結ぶ日」のことです。そしてこの「新しい契約」とは、<わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。>というものでした。

 <わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。>これこそすばらしい契約の言葉ではないかと思います。「神が彼らの神となり、彼らが神の民となる」とは、神が彼らのところにへりくだって来られ、彼らが神の民にふさわしく高く挙げられて、神と彼らが1つに結ばれることでした。神が全人類の中からイスラエルを特別に選んで十戒を授けたのは、「彼らが神の民となる」ためだったのですが、しかし彼らはこの神の願いに応えることができませんでした。
 神が、<わたしが彼らの主人であったにもかかわらず>と言われている言葉には、「わたしにはできないことはないのだ、求めるならば十戒を人の胸の中に授け、心にそれを記すこともできる神である。にもかかわらず彼らはわたしを知ろうとしなかった」という切なる思いが伝わってきます。彼らは戒めを守るために一生懸命に頑張りました。しかしそれは自分の義を求めようとして神に背く熱心でありました。罪に支配されて、破滅していく彼らに対して、神はエレミヤを通して、来たるべき日に新しい契約を結ぶことを約束されたのです。

 いったん預言者を通して語られた神の約束は必ず実現するものであります。事実その日が来たのは、それから六百年も後でした。すなわち神は、肉となって、とことんへりくだって、汚い家畜小屋で生まれ、苦難の道を歩まれ、十字架の死に至るまで生き抜かれました。それこそ<私たちと共にある>神の姿であって、本当にすばらしい神の愛の姿でした。けれども神の愛はそれにとどまりません。そのような神が、イエスという人間として、どこまでも神に背かず、苦難の道にあっても、十字架の死に至るまでも、従順に生きて、完全な人間として神の右にまで高く挙げられました。このように、イエス・キリストによって、<わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。>という契約が完成されたのであります。

 世の中には、「人間とはこうだ」と語るいろんな人間論があふれています。しかし聖書は、人間とは偶然の存在ではなく、神に造られた存在として、必ず意味と目的のある存在であると語っています。そして人間とは、神を愛し、隣人を愛し、からだと精神の統一に生き、限りある時間に生きる、という4つの定めを語っています。これは聖書を研究して編み出した人間論ではありません。神が具体的にイエス・キリストにおいて示されたすばらしい人間性です。ところが私たちは、罪によって、この神の定めにあらがって、人間性を台無しにして、悲惨な現実をもたらしています。その中の1つである「神を愛する」という定めについて考えてみたいと思います。イエス・キリストを通して神が私たちに示された4つの定めの一つである「神を愛する」ことについて考えてみたいと思います。

 人間には宗教心があります。これは、神を愛するようにと神が私たちに与えてくださったすばらしい恵みであります。ところが古代から人類は、自然現象や人間界の出来事の背後に超越的存在つまり人間を超えた存在があると思い、神々を見出し、それに依存して、生きる支えとしてきました。ですから宗教心の投影として、人間は神々を作り出してきました。このため世の中には「神」があふれています。それは日本でも同じです。しかしその「神」には決定的な矛盾があります。人間を超越する存在なのに、それがどんなものであるかということをすでに知っているという矛盾です。そういう「神」に、神々しい威厳や栄光、全能性や普遍性や神秘性などを人間が与えることができるのは、人間の産物だからです。悩み事や生きる意味などいろんなことを問いかけても、答える相手が宗教心の投影にすぎないのですから、じつに無力で空しいものです。まさに今、日本で祭り上げているさまざまな神々について言わずともおわかりだと思います。

 しかし人間が神を愛する存在であることを破壊することはできません。なぜならそれは、神が定めた絶対的な恵みの掟だからです。じつはこれこそが神の契約なのです。<わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。>という契約は、世の初めから立てている神の計画であって、そのために神は天地を創造されたのです。神はその計画を、天の高いところで実現するのではなくて、この地上で、この世界で実現するために、イスラエルの民を選ばれました。そしてその民の一人としてイエス・キリストは生まれ、契約を完成しようとされました。ところがイエスは人間の罪に直面しました。そのため契約が破れてしまおうとしたそのとき、イエスは自ら犠牲となって、契約を完成させる道を取られたのであります。

 「これは、あなたがたのためのわたしの体です。この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約です。食べる度に、飲む度に、私の記念としてこのように行ないなさい。……」そのように言われて、最後の食事が終わった後、十字架の道を歩まれました。彼の弟子たちは、そのことをずっと証言してきました。その証言の1つが、先ほどお読みしたヨハネ1:14であります。<言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た>…。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」それは福音書に書かれているイエスの姿そのものであります。そして「その栄光を見た」とは、甦えった人間イエスのことです。イエスによって契約は完成され、私たちのための完全な人間性を実現されました。彼は、神の敵であった私たちを、罪赦された者にふさわしい神の子としての風格、品性、資質、資格を備えさせるために新しく造り変えてくださいます。これは、たとえ私たちがどんな人間であろうとも確実にかなえてくださるすばらしい約束です。イエス・キリストの父なる神は、私たちを、罪赦された者にふさわしい神の子としての風格、品性、資質、資格を備えさせるお方です。これは「イエスの似姿になる」とか「イエスを着る」などいろんな言葉で表現されていますが、神は私たちをそこまで面倒を見てくださるのです。そういうイエスにしっかりと繫がってこれからも歩んでいきたいと思います。

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