2019年6月9日 聖書:エゼキエル書37章1節~14節   「聖霊それとも幽霊」 茶屋明郎牧師

 聖霊は、私たちを恐れさせる幽霊のようなものではなく、また混乱させ、ダメにし、滅ぼす悪霊でもなく、そうではなく、安心を与え、喜びにみたされ、命に溢れ、生き生きと生きることができる力であり、風と同じように、見えないけれども、存在し、私たちに大きな影響を与え、できないことが出来るようにする力が聖霊です。
 聖霊の降臨によって生まれたのが教会であり、無力であり、愚かであり、愛がなく、自己中心であり、罪深い弟子たちが新たな力を与えられ、知恵を与えられ、愛の心が与えられ、共に生き、助け合い、赦しあって生きる共同体が実現しています。
 私たちが今、ここに、教会にいるということは、聖霊を受けて、神の選びを受け、愛され、かけがえのない者として受け入れられているということであり、このことを自覚し、確信しているならば、私たちもできないことができる力が与えられ、自己中心的な者が他者を思いやる人に変えられ、裁いている者が赦す人間に変えられ、絶望しているものが自信と誇りを取り戻し、希望に生きることができるのかもしれません。
 この希望をイスラエルの人に与えたに違いない言葉が預言者エゼキエルの言葉、つまり、枯れた骨に聖霊が注がれることによって、生き返るという言葉です。
 エゼキエルがこの言葉を預言したのは、紀元前6世紀、イスラエルがバビロニアの国によって滅ぼされ、王などの多くの指導者たちがバビロンに連れていかれていた、いわゆるバビロン捕囚という屈辱を味わっているときでした。
 絶望していたイスラエルの人たちは、エゼキエルの預言を聞いて、どんなに励まされたことか、生きる力が得られたことか、実際、預言が成就した時は、人々は生ける神を褒めたたえ、自信と誇りをとりもどすことが出来たに違いありません。
 大きく、力強く、豊かな力として働く聖霊を受けるならば、望みが全く失われ、もう立ち上がることが出来ないと思われるような絶体絶命の状況に立たされても、何とかなる、逆転できる、万事が益となる、耐えられない試練はない、必ず逃れる道があると思い、最後は恐れや悲しみそして絶望の死ではなく、それらで終わるのではなく、最後の勝利するのは、平安であり、喜びであり、希望であり、命であることに気づく違いありません。
 神がこのすごく、素晴らしい聖霊を私たちに注ごうとしているのは、私たちが悲しみ、苦しみ、絶望し、生ける屍のようになっている状態を見るのが耐えられず、何とかしてあげたい、自信と誇りをもって生きてほしい、喜びに溢れ、自分がどんなに尊い存在であることに気づいて、生きてほしいという神の豊かな慈しみがあるに違いありません。
 聖霊を受けるためには、ただ祈る求めることであることを教えているのがペンテコステの出来事です。

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