2019年6月16日 聖書:出エジプト2:23~25、ヘブライ1:1~3 「御子こそこの世の希望です」 川本良明牧師

世の中には神々が溢れています。また「人間とはこうだ」という人間論も溢れています。それは人には宗教心があり、理性があるからです。限りない愛をもって天地を創造された神は、私たち人間を、「神を愛する」「隣人を愛する」「体と精神の統一に生きる」「限りある時間に生きる」という4つの定めに生きる者とされています。そしてこのことは一般的な人間論ではなくて、具体的に神の独り子である人間イエスにおいて示されました。人間は偶然の産物ではなく、必ず意味と目的のある存在です。この4つの定めの最後の、「命には限りがあり終わりがある」ということも神の愛と恵みの定めなのですが、今日は、「神を愛する」「隣人を愛する」という神の定めについて考えたいと思います。

 神は、神を愛するように宗教心を、隣人を愛するように理性というすばらしい能力を私たち人間に与えてくださいました。しかし人間は罪によって台無しにしてしまいました。しかしたとえ台無しにしようとも神の愛と恵みの定めから逃れることはできません。ですから逃れることのできない宗教心と理性から、結局、人類は、宗教心によって自然現象や人間界の出来事の中に神々を見出し、むなしいと知りながらも生きる支えとしてきました。また人類は、理性によって文明を作り出しました。これは自然の脅威から身を守るためだったのですが、その代償として、奴隷制度を生みだしてしまいました。文明のあるところは例外なく奴隷が存在し、そしてかならず宗教によって文明を支えられています。

 もちろんこのことは日本でも例外ではありません。日本にはすでに縄文時代に神道という宗教がどこにでもありました。また4世紀にはヤマト政権が生まれましたが、これは明らかに奴隷制国家であり、7世紀には皇室神道と中国の律令制度を組み合わせた、天皇を頂点とする天皇制国家という、より体系的に整備された奴隷制国家へと発展しました。天皇は、ちょうど邪馬台国の女王卑弥呼と弟が分け持っていた政治権力と宗教的権威が1つになった祭祀王でした。ですから天皇は、皇室の先祖崇拝だけでなく国家全体、国民全員の平安と繁栄を祈願するという極めて政治的な力を持っていました。やがて政治権力が平安時代には貴族に、また鎌倉時代には武家に移ると、天皇は、彼らに摂政・関白や征夷大将軍などの官位を授けるなどによって、祭司としての権威を維持しました。また貴族や武家は、自分たちの権力を正当化するために皇室を支援しました。このように持ちつ持たれつの関係によって天皇および天皇制はずっと生き続けてきました。

 そして江戸時代も終わりになると明治維新の志士たちは、天皇を国の基軸に据えた祭政一致の国家をめざしました。そのために倒幕の大義名分をもって伝統的な持ちつ持たれつの関係をくずして、古代に天皇がもっていた祭祀王権を回復しました。こうして再び宗教的権威と政治的権力が1つになったために天皇は絶大な力を持つことになり、恐るべき天皇制ファシズムを招くことになりました。それは、国体護持を使命とする天皇を熱狂的に崇拝させ、戦争を聖戦と信じさせ、万世一系の天皇を戴く日本は、世界で最も美しい国であって、この国体を命をかけて護持し、現人神である天皇のために命を捧げることこそ臣民の務めであると信じこませ、自分自身が天皇および天皇制の奴隷になっているにもかかわらず、そのことに気づかないで他の民族を蔑視し、奴隷として支配することを正しいと思い込ませた狂気の時代でした。しかもそれは戦後も続き、今も続いています。先月、新元号と新天皇の即位があり、新しい時代が来たかのように宣伝されていますが、奴隷制社会であることに変わりありません。

 かつてドイツのヒトラーを神に仕立てて演出したゲッペルスは、日本の天皇制を見て強くうらやみました。日本では演出しなくても自分から進んで天皇に尽くすのを見たからです。そしてナチスは滅びましたが、天皇制は生き延びました。それほどに天皇および天皇制はしたたかです。ですからその歴史をわずか5百年、千年の単位で見るのは危険です。まして「今の天皇は前の天皇とはちがう」などと70年そこらで見るのは論外です。とは言っても日本も人類につながっており、押し寄せてくる奴隷解放の波から逃れることはできません。たとえ天皇制がいかにしたたかであろうと、神の良き定めを破壊することはできません。しかしそれよりも私たちは、神の言葉を聞くことができる恵みを感謝したいと思います。

 先ほどお読みした出エジプト記2:23~25ですが、古代エジプト帝国で奴隷とされていたイスラエルの民が、これまでにない過酷な状態に置かれていたことを伝えています。<それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、「神は」アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、「神は」御心に留められた。>新共同訳聖書では2か所「神」を略していますが、「神」が5回も書かれているということは、イスラエルの民が、自分たちを苦しめるエジプト帝国に対していろんな抵抗をしてきたけれども、万策尽きて神に助けを求める以外になくなった、そのとき神が行動を起こされたということを伝えているのです。

 <労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。>ということは、万策尽きて、もうダメだ、と思って、神に助けを求める以外にないというときに、神がこれを受けとめ、立ち上がって行動を起こされたという意味です。事実、この後、神はモーセという人を用いてイスラエルの民をエジプトから解放されます。それは人類史上最初の奴隷解放です。しかしこれは第一歩であって、神は全人類を見すえてこのことを起こしたのです。出エジプトというの日本においては出天皇制です。それにしても神が出エジプトのためにモーセを用いられたのは、彼がエジプト帝国を熟知していたからではないでしょうか。ですから私たちも天皇制を批判的に見すえながら、出天皇制をめざしたいと思うのです。

 しかし出天皇制は私たちにできることではありません。<私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。>(エフェソ6:12)と聖書が語るように、私たちにできることは神に助けを求めることです。このためにまず私たちは、宗教心が作り出した偽りの神から解放され、真の神を知らなければなりません。しかし私たちには絶対に真の神を知ることはできません。それでもなお真の神を知る道があるとすれば、それは神の方からご自分を示してくださる以外にありません。それも太陽の光をまともに見ることができないように、私たちの目線にあった形で示されなければ知ることはできません。聖書は、神を、人間の言葉で自分を示す神であると伝えています。<初めに、神は天地を創造された>という聖書の最初の言葉からして、特定の人間を預言者として選んで、言葉を託して語らせています。しかしそればかりではありません。先ほどお読みしたヘブライ人への手紙1章1~3節には、<この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました……>と告げています。それは、預言者のように語るだけではなく、人間イエスとなって苦難の道を歩み、十字架の死において人間の罪を清め、復活して神の右の座にお着きになるという行為そのもので語りかけ、具体的な人間イエスにおいて示されたのです。

 この神の御子である人間イエスに出会った当時の人たちは、どんなに幸せな時であったろうかと思います。中でも弟子たちにとって、イエスとの出会いは最高に楽しく、じつに幸せなひとときでした。ガリラヤの丘で、嵐の海で、5つのパンと2匹の魚の奇跡、病の癒やし、盲人の癒やし、宣教に派遣され帰った後の団欒、寝食を共にした旅の思い出、権威ある教え、死者の復活など、どれも皆すばらしい時でした。であればこそエルサレム入城以来、事態は一変し、忍び寄る不安と恐怖の予感が現実となって、捕縛、連行、断罪、拷問、ゴルゴタで十字架にかけられ、死んで墓に葬られた時、彼らはじつに悲痛のきわみでありました。

 ところがその3日後、イエスが甦えって再び姿を見せました。あのイエスが! まったく同じイエスが! しかも死に打ち勝って、二度と死に脅かされることのないお方として帰って来たのです! このときの弟子たちの喜びはどれほどであったか、想像を超えています。後からふり返ると、それは40日という限られた期間ではありましたが、復活したイエスとの目に見える、直接の交わりは、じつに喜びの満ち溢れる忘れることのできないときであったと思います。そういう中でイエスは弟子たちに、使徒としての心得、これから為すべきことなどを教え諭したのであり、彼らは一言一句漏らさず聞き取り、肝に銘じたのです。ですからイエスから、まもなく父のもとに帰ること、そして聖霊として再び来ることを告げられたとき、彼らには十字架に死ぬ前の最後の食事の際のような不安や悲しみはありませんでした。なぜならそのことがイエスにとって絶対に必要なことであることを知ったからです。<今はあなたがたは、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。>ヨハネ福音書14章から17章は、このときの弟子たちとイエスの深い交わりの場面を本当によく伝えています。

 <わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。>という契約を根拠にして、神は天地を創造されました。そして神は、この契約をイエス・キリストにおいて完成されました。神はとことんへりくだって、私たちのあらゆる困窮、悲惨、苦しみ、痛みを引き受けて、共に歩んでくださることで、<わたしはあなたたちの神となる>という約束を果たされました。そして私たちと同じ弱さを持ちながら強く生き、悲惨な現実の中に身を置きながら堕落せず、死んでいながら死に勝利して、死者の中から復活させられて、完全な人間として高く挙げられ、私たちのために、私たちに代わって人間性を完成してくださって、<あなたたちはわたしの民となる>という約束を果たされました。

 このすばらしい約束にあずからせるために、神は聖霊として来られました。それが聖霊降臨の出来事です。何よりも忘れてはならないのは、聖霊は、十字架にかかる前のイエスであり、見えないですが、復活して再び来られた同じイエスなのです。私たちはそのことをはっきりと認識しているでしょうか。弟子たちにとってペンテコステの出来事は、甦えったイエスと再会し、40日間交わりをもったとき以上に歓喜あふれる出来事でした。ですから教会が生まれて、福音を伝える使徒たちや多くの弟子たちは、見えないけれども自分たちはいつもイエスの内にあり、イエスもまたいつも自分たちの内にあるという生き生きとした自覚をずっと継続して持っていました。使徒言行録が伝えているのはまさに聖霊の活動であり、聖霊にあずかっているキリスト者たちの活動であって、私たちはそのように今イエスを聖霊として与えられているということを知らなければなりません。しかもイエスはあのとき、私は再び来ると約束されて天に昇られました。つまり、今は見えないけれども、聖霊として私たちと共にあり、教会において歩まれておられる同じイエスが、再び姿を現わすと約束されたのです。ですからイエスご自身こそこの世の希望であることを確認したいと思います。

 神は天地創造の初めから、私たちが奴隷として苦しむことを見過ごしにされないばかりか、すでに決定的な勝利の叫びを世界にとどろかせておられるという現実の中に私たちはいます。そのことは見えず、隠されているだけであって、それがまことの現実であることを信仰をもって受けとめたいと思います。かつて神は人類最初の奴隷解放をエジプトで起こされました。その出エジプトは、その後のイスラエルの歴史においてくり返しふり返り、現実にそのことが起こっています。そして今はもう全世界の歴史において展開しておられるのが、聖霊によるイエスの活動です。そのことを私たちは希望をもって信じることができるし、先立って進んでおられる勝利者イエスに従って、日本における奴隷制度である天皇制から脱出する希望を与えられていることを喜びたいと思います。

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