2019年6月23日 聖書:ヨハネによる福音書21章15~16節 「自らを受け入れる」 豊田護兄

 ペテロは三回同じ事質問をされます。かつて三度裏切ったという事実があったからでしょう。イエスは何もそのことにはふれません。しっかりとその事実を、自らのおかした罪を受け入れなさいと言うかのようでもあります。そして、人は自らが望まない現実が待っていることを告げます。ここにはいろいろな意味がありそうです。

 人は老いていきます。私自身も最近肉体的な面ではもちろん、色々な面で衰えを感じます。でもそれを受け入れるのがとても難しい現状です。でもそのことからは逃れられません。長年の仕事を通して学んだ事の一つに、「障がいを受容する」ということがあります。「障がい」は直りません、そしてそれを全面的に受け入れた時に、初めてその人の「障がい者」としての生き方がはじまります。これは理解とか知識ではありません。     特に教師や医師はこのことが分かっていない場合がとても多く、偉そうなアドバイスや指示が相手を大きく傷つける場合が多くあります。最近話題になっている、妊婦さんの羊水の検査による「障がい」をもつ子どもの生まれる確率がわかる検査についてです。実際に、平気で現場の医師は「高齢出産は、障がい児がうまれますよ」などと妊婦さんにつげています。私の友人の子どももそれをつげられました。親切で何の悪気もなく言っています。「障がい」は悪ですか、「障がい者」は存在してはいけないのですか。という大きな問いが後ろに在ることは全く考えていません。

 どこかの国の大統領と同じです。自国の経済的な現状を見ようとしないで、又戦争を始めようとしています。自らの現状と現実を受け入れるというのは大変に難しい事です。でもとても大切なことです。キリストは、つまらぬ指示や忠告はいかなる場面でもしません。自らの「死」すら静かにうけいれました。そして優しく「受け入れなさいと」つげているように思えてなりません。

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