2019年7月14日 聖書:ルカによる福音書7章18節~35節 「イエスに躓かないために」 茶屋明郎牧師

 主イエスが「私に躓かない人は幸いである」というすごい自己証言をされたのは、バプテスマのヨハネから、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも他の人を待つべきでしょぅか」という質問を受けた時でした。
 主イエスは、ご自分を信じ、忠実であるかどうかによって祝福が得られるかどうかが決まるというすごい自己証言を、普通ではない特別なことを示す、さまざまな奇跡をおこなっていることを示した後に、言われています
 主イエスが、なぜ躓かない人は幸いであると言われたのか、それは、ご自分の言葉や行動につまづかせるものが多くあると思われたのかもしれません。つまり、救いを力強さや権力によって実現し、律法を守る人が義とされ、祝福されるという理解と違って、主イエスは、罪人を受け入れ、寄り添い、赦しながら、弱弱しく、小さく、愚かに見える、ご自分の十字架の道を歩む生き方に多くの人が躓くと思われたということかもしれません
 これらのつまずきから逃れる手立ての一つが、主イエスがもたらす幸いや祝福が、この世ではえられない魂の救いという特別なことであり、偉大な人生としてみなされることであり、神の人類を救うという尊い業に選ばれ、必要とされ、用いられる恵みにあずかれることを信ずることです。
 この時、主イエスは、「躓く人は不幸だ、祝福されない」という排除し、断罪する決定的な言葉を言わなかったことに何かの意味があるとすれば、次のことが考えられるのかもしれません。
 躓かない人は誰もいないし、皆躓くけれども、躓くそのことが全くダメだということでもなくて、むしろ信仰の門を開く切っ掛けになりうると思われたから。つまり、躓くことによって、自分が赦しを必要とする存在であることに目が開かれ、悔い改めさせられ、謙虚にさせられ、正しくない者を正しいものとして扱う、神の救いが理解できるようになり、より深く信ずることができるようになるからということがあるかもしれません。
 いずれにせよ、主イエスは、救い主である私に躓かないように、謙虚になり、幼子のよ
うになり、自分の考えを捨てて、むなしくなって、私に忠実になりなさいと呼びかけています。  

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