2019年7月28日 ヘブライの信徒への手紙2章1~9節 「押し流されないために」川本良明牧師

 現代は情報が洪水のように溢れています。情報とは言葉であります。人の言葉によって押し流されやすい私たちにとって、どの情報を聞き、選び、決断するかは、重大な事柄です。先ほどお読みした、<私たちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます>という聖書の言葉は、現代においてもじつに的を射ています。ただ私たちは、幸いなことに、神の言葉を聞くことが許されています。神の言葉とは、イエス・キリストのことです。このお方こそこの世を漂う船が錨を降ろすべき場所ではないかと思います。なぜなら、イエス・キリストは、神であると同時に私たちと同じ血と肉を備えておられるからです。2章14節に、<イエスは、悪魔を御自分の死によって滅ぼすために血と肉を備えられました>と書いています。この「血と肉」とは、生物的な言葉ではなく「土の塵」のことです。創世記2:7に、<主なる神は、土の塵で人を形づくった>と書いていますが、「土」と「人」に訳している原語はアダマーとアダムです。ですからアダムとはアダマーを名前にしたもので人間一般のことです。「土の塵で人を形造った」とは、人は弱く、はかなく、もろく、価値がないものとして造られているという意味です。ですから「イエス・キリストは血と肉を備えておられた」ということは、イエス・キリストは、土の塵であると同時に全能の愛の神として、私たちの間に今も生きておられると言うのです。

 このイエス・キリストを証ししているのが6節以下です。そのために著者は詩編8編を引用しています。詩編8編(p.840)の作者は、創世記1章、2章を背景にして、創造者である神は、土の塵にすぎない人間を、何とかけがえのないものとして見られ、扱われていることであろうか、と感動して歌っています。そしてヘブライ人の手紙の著者は、詩篇8編の読み方をがらりと変えています。たとえば詩編の6節とヘブライ人の手紙7節を比べると、<神に僅かに劣るものとして人を造り>が<あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされ>に変わっています。つまり〔人→御子〕〔神→天使たち〕〔僅かに劣るもの=地位の低さ→わずかの間、低い者=時間的な短さ〕に読み替えています。そうすると当然、詩編5節で語る<あなたが御心に留めてくださる人間…。あなたが顧みてくださる人の子…>も、また詩編7節で語る<御手によって造られたものをすべて治める>も神の御子であることになります。

 これは大変重要な読み替えですが、著者が神の言葉である詩編を、確信をもって読み替えることができた決定的な根拠は、イエス・キリストが復活されたことにあります。復活されたイエス・キリストにあって生きる著者にとって、それは当然のことでした。そして復活のイエスが、今まさに生きて働いておられる現実を知り、今の時を正しく認識することは、キリスト者として、今の時代を押し流されないで生きる上で、ちょうど船が降ろす錨であったわけです。

 8節で、<すべてのものを、その足の下に従わせられました。しかし、いまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません>と語っていますが、すでに著者は1章13節で、<わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい>と、終わりの日の完成を語っています。ですから、すでに救いのわざは成し遂げられたのだが、完成の時はまだ来ていない、それが今の時だというのです。しかしさらに著者は、今はそういう時だけれども、イエスが、死の苦しみのゆえに<栄光と栄誉の冠を授けられました>と語ります。このイエスが授けられた冠とは<大祭司の地位>です。それは17節に、<それで、イエスは、…民の罪を償うために、憐れみ深い、忠実な大祭司となった>と書かれています。ですから著者は9節で、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたイエスが、死の苦しみのゆえに大祭司の地位を与えられたのを私たちは見ています。しかもそれは、すべての人のために死んで、救いの道を開くための、神の恵みによることだったのです」と語っているのです。

 理屈っぽい内容でしたが、簡単に言えば、すでに救いのわざはイエス・キリストによって成し遂げられているのだが、その完成の時がまだ来ていないということです。そして「すでに」と「まだ」の間の緊張状態にあるのが今の時であって、私たちは終わりの日の完成を待ち望みながら歩んでいます。この世の中は、いまだに罪と悪に満ちているではないか、それは教会でも同じで、何というありさまであろうかと歎くのですが、それはイエスの時代から、イエスが天にあげられて教会が始まって以来ずっと続いていることであって、何も今に始まったことではないのです。私たちはすでに成し遂げられたことといまだそれが完成されていないという緊張状態の中で、この時を過ごしているのです。

 では今はどういう時であるかと言えば、大祭司であるイエス・キリストが私たちのために神の前に執り成しておられることは確かであります。ローマ8章34節で、<だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。>とパウロは語っています。私たちの中に、私たちの周りに、罪と悪の泥まみれの状態であることを見るのですが、しかし、誰が私たちを罪に定めることができるのか。私たちはすでにイエス・キリストによって救われており、たとえ今、罪と悪が自分の中で起ころうとも、すでに過去のものとされ、十字架の死において、イエス・キリストが滅ぼしてくださっているのだ。だからそのことを、喜びをもって、感謝をもって、信じて、希望をもって、終わりの時に向かって歩むことが許されているのですから、パウロと共に確かな足取りで歩みたいと思います。
 罪と死の救い主であるキリスト・イエスこそ真理であり、イエス・キリストの言葉こそ現代に生きる私たちにとって、押し流されないために降ろす真の錨であります。なぜなら、このお方は、今まさに生きておられ、私たちと共におられるからです。私自身、先週そのことを経験したことを証ししたいと思います。

 先週韓国に行きました。今から28年前の1992年、在日大韓基督教会小倉教会の崔昌華牧師が、「日本が朝鮮を侵略して4百年目である」と言われました。そして日本歴史上初めて、豊臣秀吉の朝鮮侵略を抗議する集会を、唐津の名護屋城址で開きました。その後も毎年4月に開きました。8回が終わった時、やめる前に韓国に行こうと2000年に釜山で集会を開いて驚きました。韓国では、壬辰倭乱・丁酉再乱として、単なる過去のことではなく、今なお生き生きと覚えられていたからです。
 日本では「文禄・慶長の役」ですが、文禄・慶長は元号であり、役は国内で起こった事件のようで、実態が何も伝わらない表現です。しかし、韓国では、壬辰の年に倭(=日本)の軍隊が侵略してきた、また丁酉の年に再び侵略してきたと表現しています。このように今も生き生きと覚えられているのは、それほどに傷が深いということです。4百年たってもいまだにその傷は癒えてないということでした。そこで毎年、韓国の各地で集会を続けました。じつに至るところで傷跡が残っていたからです。人数は少なく、無意味に見えましたが、反響は大きく、全国放送で報道されてきました。また釜山で、中高生と教師たちとの交流会を持ちましたが、じつに豊かな交わりを続けて来ました。
 集会を提起した崔昌華牧師は、「豊臣秀吉の朝鮮侵略が本当に反省されていれば、近代日本の侵略の歴史はなかった」と言われていました。ですからこの集会の目的は、近現代の日朝関係の歴史を正しく知って、今とこれからの日韓・日朝の平和、友好の関係を築くために学ぶことでした。

 歴史のことを少しふれますと、ボートをこいで正しく前に進むためには、後ろを正しく見なければならないのと同じように、歴史を正しく認識することは、今を、またこれからを正しく進むためです。ところが日本の歴史教育は、近現代が欠けています。小中高とも皆、縄文時代から始まり、江戸時代の終わりには息切れして、日清戦争あたりで終わり、近・現代はほとんど学んでいません。だから今を正しく判断出来ず、これからの進むべき道も誤っていくことは目に見えています。今の政治家や国の指導者たちには近・現代の歴史が欠けており、政治的想像力のないままに確信をもって発言したり振舞っているので、じつに危険です。
 歴史とは、過去の事実を知ることだけが歴史ではなくて、その事実がどうして起こったのかを知ることが歴史です。本来歴史は自分が作るもので、学者が作るものではありません。過去の事実は無限にあり、その中からどれを引き出して歴史を書くかは、その人の選び方によるわけですから、一人ひとりが歴史なのです。
 それでは過去のどんな事実を知ればよいのかは、今、どのような視点を持っているかによって決まります。平和や人権や友好を大切に思うとき、過去の事実の中から、それにふさわしい足跡を見出すことになります。弱肉強食や対立や競争を重要と思うならば、勝ち負けや支配と被支配などにふさわしい過去の事実を求めて歴史を作ることになります。だから今、自分がどういう目で物事を見、考え、願っているかが大切です。この点で、キリストに従い、和解と平和、人権、愛、真実などを求めて立つことは、歴史認識において欠かせない土台だといえます。

 最近の日韓関係は、この28年間で今ほど険悪な関係はありません。慰安婦問題に加えて徴用工の問題が、韓国の最高裁判所の判決から起こり、貿易の問題にまで広がっています。先週、フェリーで釜山に行き、すぐに日本総領事館に行きました。慰安婦の少女像が設置されていたからです。その像はイスに座っていて、平和の象徴として肩に鳩が置かれており、髪の毛が短く切られていました。それは日本兵が侮辱したことを表わしています。足は裸足でしたが、それは今もまだ帰って来ていないという意味です。また空のイスが横に置かれていて、それは、友達を求めているとか孤独を表わしているとか、いろんな意味があるそうですが、全体から痛切な叫びが伝わってくるようでした。
 すでに釜山日報の記者が来ていて、インタビューに答えていた朱文洪牧師が、実行委員長の私に、言葉ではなく少女像に対して感じていることを表わして欲しいと言っていると伝えてきました。私は戸惑いながら、少女の肩をさわり、また膝の上にある両手を握りました。記者たちはいっせいに写真を撮っていました。その後、みんなはイスに座って写真を撮ったり、遠くから眺めたりしていましたが、私は少女の裸足の足が強く気になっていました。
 そして思い浮かんだのは、イエスが最後の食事の前に、弟子たちの足を洗う場面でした。汚れた足を洗うのは奴隷の仕事です。イエスがかがんで弟子たちの足を洗っているとペトロが、「先生、やめてください」と強く拒みました。そこでイエスが「わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたと何の関係もなくなる」と言うと、「では頭から足の先まで洗ってください」と言うペトロに、イエスは、<ペトロよ、あなたはすでに全身が清いのだから、足だけ洗えばよい>と言われました。そのイエスの言葉が聞こえました。また十字架の死を予感したいわゆる「罪の女」が、高い香油をイエスの足に塗り、涙で拭った場面を思い出しました。
 私自身、過去77年間に積み重ねてきた罪と悪の泥まみれのがれきの山を思い返し、最近、そのことがくり返し自分の心を襲っていることを思うと、歴史を知らない政治家や指導者たちと同じ日本人の一人ではないか、彼らとどこがちがうのか、自分自身、歴史的に繫がっているではないか。そんな自分が、イエスによって全身を清められている、今、その愛に応えることが求められているのではないか。……このことを思い巡らしている中で、私は少女像に近づき、その前に立ちすくむと、思わずその前にひざまずいて、少女の両足を両手でさわり、洗うしぐさをし、また中腰になると少女の両手を握ってじっとしていました。
 集会の目的地に行くバスの中で、「政治家や天皇が謝罪をしない中で、日本人が皆同じなのではない、という市民の思いを恥ずかしいのでこれまでできなかったが、私たちを代表して表わしてくれたことに感謝しています」との発言があり、「アーメン」という声がありました。ただ私の行為がどう評価されるのか、すべて神にゆだねたいと思います。…次の朝、その新聞にその場面が大きく掲載されていました。

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