2019年8月4日 聖書:ローマの信徒への手紙1章1~7節 「交わりのうるわしさ」世良田静江牧師

今日の箇所は使徒パウロが「ローマにいる神に愛され召された聖徒一同へ」宛てた手紙であることは、交わりを求めて書かれた手紙といっていいでしょう。ゴッホとゴーギャンが共同生活をして互いに刺激しあい成長をするためには良かったのですが、個性的な二人のこと、長続きはしませんでした。詩編133篇に、「みよ兄弟が和合して共にいることは、いかに麗しく楽しいことであろう」ということが人間の最高の姿であると。使徒言行録をみますとパウロはユダヤ人などから迫害を受けていた事が伺われます。かつて、パウロはキリスト者やその群れを迫害しダマスカス途中で天からの光によって目が見えなくなり、その後回心をし、キリストを述べ伝える者に変えられたものの、それを素直に信じ受け入れることなど出来なかった人々も沢山いた事でしょう。疑うということは交わりを殺す毒薬です。この疑うことが心の中にあれば、交わりなどできる筈がないのです。このローマの信徒への手紙は深い思いを持って書かれた事でしょう。一体人間がどうして本当に交わりができるのでしょうか。交わりとはコイノーニア、英語ではパーティシペーション(大いなる一つのものに参与する)という意。それが聖餐式を表しています。教会の中で皆一つになり参与して聖餐を受ける。これが交わりです。パウロはここで発信者として丁寧に書きおくる。もう一つは挨拶文の中に召された信徒とされたことをパウロは強調しています。パウロは肉体をもったイエス様とは出会っていません。霊的な交わり、神に愛され召されたことを祈り込んでいます。パウロは召されて信徒となり、多くの書簡を生み出した働きをこの挨拶文からどう受けとめられるでしょうか。礼拝を大切に守り奉仕も喜んで出来ることをし、感謝をもって捧げられるべきものを捧げ交わりを大切にする日々の生き方が自主的に喜んで出来たらどんなにか幸いでしょうか。この幸いから伝道する喜びが生まれるのです。伝道せずにはいられない信仰がわきあがるのです。

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