2019年8月11日 聖書: ヘブライの信徒への手紙 3章7~15 節「今日、救いがあなたに訪れた」川本良明牧師

 8月になると長崎で毎年、教区主催の反核平和セミナーが、原爆投下の9日を中心に開かれています。そのことで私は、いつも日本の近代史を考えさせられてきました。もちろん教会の近代史もです。歴史は古代から現代まで切れ目なく続いています。平和な時もあれば戦乱の時もあり、熱い時・冷たい時、穏やかな時・緊迫した時などを経ながら、それぞれ特徴ある国や地域が形成されてきたのですが、しかしどの時代、どの地域にあっても、いつも変わらないものとして扱われてきたものがあります。それがキリスト教だと思います。キリスト教は、時代や地域を問わず、いつも異質なものと見られてきました。日本においてもそうですが、そのことをあらためて考えさせられるのはキリシタンの歴史です。

 キリスト教が、戦国時代という日本史の中で最もきびしい時代に伝わってきたことには、私たちには分かりませんが、神の深い計画を思わざるをえません。詳しくは語れませんが、当時の戦国大名たちにとって、浄土真宗の門徒が起こした一向一揆などを見ても、命をかけて信仰に生きる力に脅威を感じていました。ところが伝来してきたキリスト教は、わずかの間に急速に民衆の間に広がっていきました。これを見て今までにない脅威を戦国大名たちは覚えました。そのためキリスト教は、戦国の世が収まっていくと警戒されるようになります。そして豊臣秀吉が全国を統一して、バテレン追放令を出してから弾圧が始まり、徳川の泰平の世になると徹底的に弾圧すると同時に鎖国を行ないました。朝鮮との通信外交やオランダや中国との交易関係を見ても国を閉ざしていません。鎖国はキリスト教を排除する政策でした。その中で互いに愛し合いながら耐えていったキリスト者たちの物語があったと思いますが、250年の間、キリスト教は邪教と見られてきましたし、それは近代国家になっても弱まることなく続いていきました。

 しかし教会の歴史を見ると、これは決して特別なことではありません。先ほどお読みしたヘブライ人の手紙が書かれた時代は、紀元80~90年頃とされています。その頃からローマ帝国の皇帝礼拝が始まり、苦難の中にあった教会とキリスト者たちにとって、迫害に耐え、キリストに対して信実に生きることは切実なものでした。こうしたことを背景にして手紙の著者は、<最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となります>(14節)と警告しています。「最初の確信」とは、自分の信仰に対する確信ではなくて、キリストによる救いのわざに対する確信のことです。これは私たちに大切なことを教えてくれます。私たちは自分の信仰の状況を詮索しがちです。とくにすぐれた活動の人を見たとき、「自分にはあんな信仰はない」と思わないでしょうか。しかし大切なのは、<あなたの信仰があなたを救った>と言われたイエスさまの言葉を聞くことによって、自分の信仰をあれこれ詮索するよりも、信仰の対象である主に目を向ける者へと変えていただくことです。なぜなら人がすばらしいのではなくて、その人を立て、信仰を与え、用いている神ご自身がすばらしいからです。

 また著者は、迫害に苦しむ信者たちに、<今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない>(15節)と警告しています。これは、7節から11節にかけて詩篇95編を引用して、それを15節でもう一度強調している言葉です。引用している詩篇95編は、かつてイスラエルの民が出エジプト後に荒れ野で過ごした40年間をふり返っています。エジプト帝国で奴隷として苦しめられていた彼らは、神に助けを求めました。そこで神は、彼らの叫びを聞き、救いの手を差し伸べて、奇跡的に解放しました。しかしそこには、神の深い意図がありました。それは全人類を奴隷制度から解放することでした。イスラエルの民を解放することは、その第一歩だったのです。しかしその一歩がどれほどに困難であったか、想像を絶するものでした。なぜなら解放された彼らがどのような民であったか、神に刃向かい、不平不満に満ちて、絶えずエジプトをあこがれ、そこに帰りたいと訴える人々だったからです。

 神の目的は、彼らをエジプトから自由にするだけでなく、人間として本当の自由を得させるということでした。そのために荒れ野に連れ出し、十戒を授け、人間の力や知恵に頼らないで、ただ神にのみすべてをゆだねて生きることを求めました。神は彼らの内に親しく臨み、おどろくような奇跡のわざで養いました。しかし彼らはいつも反抗し、心をかたくなにしました。そのために神は、彼らを約束の地に入らせませんでした。けれども次の世代を導いて、なお全人類を奴隷状態から解放するわざを続けられました。もちろん次の世代もまた前の世代と同じ罪人の群れでしたが、このようにじつに神は、想像を絶する忍耐でそのわざを続けられたのです。この先祖たちの姿を記した詩編95編を引用しながら、ヘブライ人の手紙の著者は、迫害に苦しむ読者たちに、忍耐を勧め、警告するのです。

 手紙の著者は、<今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。>と言って、「今日」という日を強く強調しています。それはイエス・キリストの苦難と死、復活と昇天の生涯によって、すべての人の救いのわざはもう終わったのだと信じているからです。つまりすべての人のための救いのわざは、イエス・キリストによって、ただ一回限り、すでに完全に成し遂げられています。しかしまだ罪と悪が世に満ちているのは、救いのわざが不十分だったからではなくて、ただ救いの完成の時がまだ来ていないためです。この「すでに」と「まだ」の間にあって、私たちは終わりの日の完成をときを待ちながら今を過ごしています。その終わりは、今すぐにでも来るかも知れません。その緊張から「今日」という言葉が出てくるのです。

 この救いのわざを身をもって成し遂げるイエス・キリストご自身においては、なおさら「今日」という言葉は差し迫っていました。たとえば神はベツレヘムで、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と羊飼いたちに告げています。またイエスがヨルダン川で洗礼を受けるとき、「わたしは今日あなたを生んだ」と天から声があって聖霊が鳩のように降ってきました。またエリコの町で、大勢の群衆がイエスを一目見ようと集まっていましたが、徴税人ザアカイは、背が低く、人々に妨げられて見ることができなかったために木に登りました。するとイエスが上を見上げて、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言うと、彼はひじょうに喜んで、「先生、私がもし無謀な取り立てをしていたら、何倍にもして返します」というと、イエスは本当に喜んで、「今日、救いがこの家に来た」(ルカ19:9)と語っています。このようにイエスが誕生したとき、洗礼を受けたとき、ザアカイの家に来たときなど「今日」という言葉が何度も出てきます。そのイエスが、十字架の上で死んで葬られて、死人の中から甦えらせられました。こうして、神がイスラエルの民に約束していた救いが、成し遂げられたのです。

 イスラエルの人々は、成し遂げられる救いの約束を待っていました。しかし、今は、救いを成し遂げたイエス・キリストが、死んで復活し、昇天して神の右に座しておられ、その救いを完成するために再び来られ日を待つときです。だからこれを聞いた今日、あなたは心をかたくなにしてはならないと警告するのです。このことは、今の私たちにも言われていることであります。確かに救いのわざは、昔起こったことですが、現在の私たちにも起こっているからです。
 それは皆さん一人ひとりが経験されておられるし、またこれから経験されると思うのですが、洗礼を受けることによって、イエスと共に古い命が死んで葬られるということが私たちのうちに起こって、さらにイエスと共に甦えらせられて、新しい聖なる命に生きる者とされたということです。私たちは、イエスと共に古い肉が殺されて、イエスと共に新しい霊のからだに甦えらされた者として生きるということが許されています。だから今日、イスラエルの民のように、心をかたくなにしないで、主の救いにあずかるようにと私たちも警告されているのです。

 いったいキリスト者とは、この世においてどういう存在なのでしょうか。それは14節で書いてあるように、<キリストに連なる者>です。キリストに属する者と言い換えることもできます。キリスト者は、キリストに連なる者あるいはキリストに属する者だからこそ時代や地域を問わないで、いつも異質なものと見られてきました。それはイエス・キリストご自身がそういうお方だったからです。キリストが弟子たちに言われている言葉があります。ヨハネ15章19節です。<あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである>。これは、慰めの言葉であると同時にひじょうに強い警告でもあると私は思います。つまり教会もキリスト者も異質なものとして見られまた扱われています。ということは、異質でない教会とキリスト者は、福音の力を失っており、それは教会でもキリスト者でもないということだからです。賞味期限どころか消費期限が切れたような説教を語っている教会では、みだらな行ない、妬み、悪口、肉の命ばかりを心配している場所に成り下がることもありうると警告されていることを肝に銘じるべきです。

 けれども私たちは、本当にそうだろうかと思います。まじめです。日曜日はどこにも行かないで、朝早くから教会に来て、礼拝を守っています。日常生活でもバカなことをしないで過ごしています。祈り、聖書を読み、弱い人を助けたり、教会もキリストの福音を伝えるために、あれやこれやと人集めに一生懸命です。けれどもなぜか教会に魅力がない。それは決定的なことが欠けているからではないかと思うのです。その決定的なこととは、<神を主人としていない>ということだと思います。エレミヤの預言の中に、神が新しい契約を結ぶことを告げる中で、<わたしはイスラエルと契約を結んだ、しかし、わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った>と語っています(エレミヤ31:32)。
イスラエルの人々もひじょうにまじめでした。毎週安息日になると礼拝を守り、日常生活でも祈り、聖書を読み、神から与えられた律法を真剣に守っていました。しかし神は彼らを徹底的に裁きました。それは、<わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、この契約を破った>と言っています。

 私たちは、神を主人にしていないということをもう一度深くかえりみることが必要ではないかと思います。教会を舟にたとえれば、舟の中にイエスはおるのです。たしかにイエスはおるのですが、しかし、<イエスを乗せている>のであって<イエスが乗っている>のではない。「を」と「が」のちがいですが、イエスを乗せているわけですから、乗っているイエスが、右ではなく左に行けと命じると「うるさい」と海に放り込むことをやりかねない、それが現実であり、どんどん教会の魅力がなくなっていきます。しかし神を主人とすることは、なかなか出来るものではありません。どうしても自分が主人になるのが私たちの弱いところであります。だからこそそこに祈りというものがあるのではないかと思います。しかし、祈りも、「あれしてください。これしてください」と頼みごとばかりになってしまいます。もちろん賛美歌にもあります、「み神のもとへ、すべての願いを、たずさえ至りて、つぶさに告げしむ」は、本当に大切なことです。けれども願いごとばかりになってしまうならば、それは考えなければなりません。「しもべ語ります。主よ聞きたまえ」であって、それは神社などでの祈りと変わりありません。キリスト教の祈りは、<しもべ聞きます。主よ語りたまえ>です。なぜかというと、イエスが、<あなたがたの天の父は、必要なものをすべてご存じである>と言われています。だからそのことを信じて、<しもべ聞きます。主よ語りたまえ>という祈りをもって、神を主人とし、自分を神にゆだね、神に従うために聖書の言葉を聞くという心構えで祈る生活に導かれたいと思います。

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