2019年9月8日 ヘブライの信徒への手紙4章15~16節  創世記22章1~3節「示されたまことの神」川本良明牧師

 耶馬溪に青洞門という名所があります。昔は大変な難所だったそうで、それを見かねた僧侶が、長い年月をかけて崖をくりぬき始め、やがて村人たちも協力して、30年かけて完成したトンネルです。この事実を題材にして書いた菊池寛の「恩讐の彼方に」は全くの創作でありますが、人の心理を見事に描いています。小説の主人公は、かつて罪無き人を斬り殺しては生活費を稼ぐ辻斬りの武士でしたが、そんな自分に耐え切れなくなって出家し、過去を償うための諸国行脚をしていて、耶馬溪で思い立ったという僧侶です。黙々とノミで岸壁に挑む彼の姿に、やがて人々は好意を寄せるようになりますが、彼の心の底には罪悪感があって、日頃は姿を隠してますが、突然、それが現われて彼をさいなむのでした。

 罪というのは、現実に人を苦しめ、心をさいなむもので、観念ではありません。罪は具体的に人を苦しめ、悪を生み出し、堕落させ、破滅させ、またそれを取り繕って虚偽に走り、やがて死を招きます。しかも罪滅ぼしや罪の償いをしても、罪そのものを取り除くことはできません。この「罪そのもの」を聖書は「根源的な罪」と呼んで、罪を真正面から取り上げています。
 私たちは、罪に苦しみながらも、それがどこから来るのか知りません。しかし聖書は、罪がどこから来ているのかを示すために、神はイスラエル民族を選ばれた、と語っています。つまり神は、出エジプト後、彼らに十戒に代表されるさまざまな律法を授けました。彼らは私たちとまったく変わらない同じ人間ですが、神は、律法を以って、罪がどこから来るのか、根源的な罪を問うたのです。
 私たちは、他人との関係の中で罪を経験しますが、その罪は、根源的な罪が作り出すものです。いわゆる私たちがいうところの一般的な、他人との関係で苦しむ罪は、根源的な罪が作り出す芽であり、葉っぱであり、花であります。だから人をさいなんでいる罪悪感は、根源的な罪から出てきた芽や花なのです。

 律法は、神に対する罪を問います。被造物である人間が、造り主である神にそむいている罪です。また律法は、同じ神の被造物である隣人に対して犯す罪を問います。そしてさらに律法は、大祭司が犠牲の獣を献げることによって、それらの罪を贖うように定めています。ところが大祭司自身も罪人の1人ですから、彼は自分の罪を贖わなければなりません。そういう大祭司が、イスラエルの人々の罪を贖うわけですから、大祭司が根源的な罪を贖うことはできません。
 けれどもイスラエル民族は、異邦人とちがって、罪を神との関係で見るという特徴を持っています。だから、根源的な罪を問う律法を授けられたイスラエル民族は、人類の中で最も恵まれた民であると言わざるを得ません。そして彼らは、やがて罪の完全な贖いを成し遂げてくださる大祭司を、神が自分たちのところに遣わしてくださるということを待ち望んで過ごしていました。

 先ほどお読みしたヘブライ人の手紙4章15節の、<この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた>という言葉は、約束として待ち望んでいたまことの大祭司が、すでに来られたということを告げています。もちろん、この大祭司こそイエス・キリストです。福音書を見ますと、イエスは、子どものように神を「天のお父さん」と親しく呼び、完全に父に信頼して、生涯を神に捧げました。けれどもその働きと人生の結末は、犯罪者の1人として、十字架において殺される死でした。イエスほど神に、<父よ、どうしてですか! なぜこのようなことが起こるのですか!>と真剣に問うた方はいないと思います。

 しかしイエスは、あれほどの苦難の中にあっても罪を犯さず、むしろ神のなさることはすべて良く、すべては御手の中にあると信じていました。ゲツセマネで、<できることなら、この杯をわたしから取りのけてください>と祈った彼は、そのすぐ後、<しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように>と祈られました。また十字架の上で、<わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!>と叫びました。しかし、<父よ、わたしの霊を御手にゆだねます!>と叫んで息を引き取られました。また公の活動を始めたとき、荒れ野で40日間の断食をしたとき、<神の子なら、この石をパンに変えて空腹を満たしたらどうだ>と誘惑されましたが、彼は石をパンに変えませんでした。また私たちの罪のために十字架にかかったとき、<神の子なら十字架から降りてみよ。神が天使を遣わして助けてくれるはずだ>と誘惑されましたが、十字架から降りませんでした。彼はどこまでも人間としてとどまり、肉の体としてとどまって、その激しい試練の中で、私たちの弱さをすべて味わい尽くされました。

 私たちは、自分にはまったく理解できないことが降りかかって来て苦しむとき、「これも運命だ、仕方がない」と思います。しかしイエスは、その苦難と十字架の死を、悪魔ではなく神のわざであると信じ、神が彼に与えた最後で最高の課題であると受けとめておられたと思います。すなわちイエスは、あの大祭司のように、犠牲の獣を神にささげて罪の贖いをしたのではなくて、彼自身が犠牲の子羊として死んで、その命を供え物としてささげて、すべての人の罪を贖われました。だからイエス・キリストこそまことの大祭司となられました。
 このイエスを神は甦えらせました。イエスが甦えったということは、あの時、あそこで起こった十字架の死、あるいは罪に対する裁き、あるいは罪の贖いが、かつても、今も、これからも、すべての時間と空間を超えて、大祭司イエスが、聖霊として、救いのために働いておられることを明らかにされたということです。このイエスを信じるようにと招かれたのが、あのアブラハムでした。

 彼の長い生涯が旧約聖書に書かれています。その中の22章の、イサクを犠牲として献げる物語から見てみたいと思います。この物語を、アブラハムの信仰と結びつけて、「アブラハムは、子どもを犠牲にするまでに信仰深かった」と読むことは、とんでもない誤解です。これはそういう物語ではありません。アブラハムの物語だけではなく旧約聖書全体に対して言えることですが、旧約聖書はいつもイエス・キリストを見すえて読むことです。これは、私の一つの解釈ではありません。聖書自身がこのように読むようにと勧めているのであります。
 物語は、<これらのことの後で>という言葉で始まります。これはかなり長い時間がかかっているということです。イサクが授かったのは、妻のサラが90才、アブラハムが100才の時で、とても子どもができる体ではありませんでしたが、神の約束どおりイサクが生まれました。それが21章に書かれていて、22章でイサクを献げますので、すぐに起こったように考えやすいですが、<これらのことの後で>とあります。イサクの年令については後で考えます。
 それはともかく、突然、<神はアブラハムを試された>のです。イサクを献げさせることで神は何を試されたのか。その鍵が、<あなたの独り子>という言葉です。これは3回出てきます。まず2節に、<あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて>とあります。やがて目的地について、薪を並べ、イサクを載せ、刃物で殺そうとしたとき、<アブラハム、アブラハム!>と呼ばれました。余談ですが、80才のモーセが神の山ホレブで、燃えているけど燃え尽きない柴の木に引きつけられていたとき、<モーセよ、モーセ!>と呼ばれます。また教会を迫害していたサウルが血眼になっていたとき、<サウル、サウル!>と復活のイエスから呼ばれます。神が2回呼ぶときは、他のことに目を向けている人間を神の方に向けさせるときです。それはともかく、12節に、<アブラハム、アブラハム!>と2回呼ばれて、<はい>と返事をすると、<あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。>と言われます。そして16節です。<御使いは言った。「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、…>とあります。
 そしてこの「独り子」という同じ言葉が出てくるのが、ヨハネ福音書3:16節です。<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。>で、ヨハネ福音書3章16~21節でも3回出てきます。もちろん「独り子」とはイエス・キリストのことです。しかも旧約聖書では「独り子」という言葉はここだけです。およそ千七百年の時間を越えて書かれているという、おどろくべき一致です。

 アブラハムは、愛する独り子イサクを犠牲として献げる計り知れない苦しみを通して、神の苦しみを見たのではないか、いや正確に言えば、神がアブラハムにそれを打ち明けたと言うべきではないかと思います。このとき彼は百二十才あるいは百三十才と思うと、とても私たちには彼の信仰の境地を推し量ることはできませんが、少なくとも神はアブラハムに御自分を示されたと思うのです。
 しかもここで見落としてならないのは、もしもアブラハムがイサクを愛していない父親だったら神の苦しみは分からないと思います。彼はイサクを、まったく一つであると思えるほどに、こよなく愛し、慈しみ、イサクもまた父を愛し、父と子が互いに自由な関係の中で、愛において一つでした。だから神は、アブラハムにご自分の苦しみを示そうとされました。それは、神はイエスに「わが愛する子よ」と呼びかけ、イエスは神に「天のお父さん」と親しく呼びかけ、父と子の自由な愛の関係において一つであったからです。アブラハムとイサクの関係は、まさに父・御子の神の関係を示していると言わざるを得ません。

 イサクの年令ですが、23章に母のサラが127才で死んだとあり、21章でサラは90才でイサクを産んでいます。この間隔からすれば、イサクは30才を越えていたと思います。そのイサクをアブラハムは、<焼き尽くす献げ物としてささげよ>と神から命じられました。聖書は淡々と書いてますが、彼は七転八倒したと思います。それはイエスがゲツセマネで苦しんだことのしるしです。
 またイサクは、モリヤの丘で、並べた薪の上に載せられとき、何にも抵抗せず、まったく父にゆだねています。これもまたイエス・キリストが、「父よ、あなたの御心がなりますように」と言って十字架の道を歩んだことのしるしです。
 神がアブラハムに試練を与えたのは、独り子イサクをこよなく愛すればこそであって、やがて来られる大祭司イエスのしるしとしてイサクは神に選ばれました。だから彼は、どうしても犠牲として献げられなければなりませんでした。そして神は「待った!」をかけました。それは、イサクはそこで死なないで、やがて来られるイエス・キリストの先祖として生きるようにされるためでした。

 アブラハムの信仰とは、究極的には、イエス・キリストを見すえること、イエス・キリストを待ち望むことでした。このアブラハムの信仰について、イエス・キリスト御自身が語っている個所があります。ヨハネ福音書8章56節で、ユダヤ人と論争する場面ですが、<あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。>ユダヤ人たちが、<あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか>と言うとイエスは、<はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある。」>するとユダヤ人たちは、イエスに石を投げつけようとしました。
 神は、愛する独り子が十字架の死に至る状況にあったとき、イサクを献げるアブラハムのときのようにそれをとめないで、最も重い犠牲をイエスに求めました。このことを考えるとき、私たちは、これを求めた神は何という神かと思います。けれどもそう思うときに、むしろ、愛する御子を十字架に死なせた神の苦しみは、アブラハムの比ではなく、測り知れないと思わざるを得ません。そして、それは何のためなのか、これほどまでに神は、私たちのために、その愛のわざを果たされたのだということであります。だからアブラハムと共に、またヘブル書の著者が今日お読みした最後で、<だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか>と勧めていますが、私たちもまた、罪の贖いのために命を捨てられたキリストによって示された、まことの神の愛と恵みとを、心から求めていきたいと思います。

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