2019年9月29日 聖書:使徒言行録1章1~11節「天を仰いで~昇天の信仰に生きる」岡田博文兄

 私たちの教会生活の中で、クリスマスとか受難週、あるいは復活節などは、重要なとなっています。しかし日本では、キリスト者にも関心が薄い暦に「昇天日」というのがあります。復活の後、40日の間、地上でお過ごしになった主イエスが天に昇られた日であります。使徒信条において、「三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と記されています。昇天についての新約聖書における重要な記述は、使徒言行録にあり、第1章9節には、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲にわれて彼らの目から見えなくなった」とあります。私たちが昇天を信じるというのは、この雲の現象を信じることではありません。 聖書において、雲は、「神の栄光」や「神のご臨在」そのもののしるしです。主イエスが雲に迎えられて天に昇られたのは、神に迎えられ、栄光の中で、私たちから去って行かれたことを意味します。主イエスは、かつてこの地上で目に見えるお姿で生きられ、ペテロの目の前で天に昇って行かれ、天に向かっての通路を開いてくださったのです。死人の中から甦られた主イエスが、永遠の生命に生きて今おられる所、それが天であります。だから、私たちは天を仰ぐことができるのです。昇天の信仰とは何か。第一番目は、「キリスト者は地上において既に天を知っている」ということです。私たちに先立って主イエスが死に、甦って行かれた所としての天をまず知る、その確かさ、確実さがあるからこそ、私たちは安心して死ねる、安心して死を迎えることができるのです。  8節には、「聖霊がると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム・・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とあります。なぜ弟子たちは地の果てまでも遣わされ、生き続けるのでしょうか。主イエス・キリストにおいて示される神を知ったことによって、人間として地上に生きる希望を回復し始めたからです。この地上に生きる者の、人間として生きる者の希望の根拠として、主イエス・キリストのについて証しせずにおられなくなったからです。さて、ここで「エルサレム」とは、弟子たちにとってどういう場所でしょうか。そこは、主イエスが十字架に架けられた忌まわしい地にほかなりません。さらに、彼らもまた、されたり、処刑されるかもしれない危険な場所であります。しかし主イエスは、「あなたの今いるところから、始めなさい」と言われるのです。あなたの身近な所から、自分の家から、職場から、隣人から始めなさい、と言われるのです。そしてキリスト者は、さらに未知の所である「地の果て」へと進んでゆきます。つまり、自分にとって、全く手の付けようがない、解決の望みさえ全くないと思われるような問題さえも、勇気を持って、立ち向かうのです。自分には希望がなくても、主イエスが先立たれ、勝利されるからです。そこで、静かに祈ってごらんなさい。そこに聖霊なる神が共におられから、変わらないはずがない、と言われるのです。 われわれは誰を見たのか。われわれは何を見たのか。われわれは何よって生かされたのか。これを語り続けて止みません。そこに使命があります。そこにキリスト者の生活があります。 使徒言行録には「エルサレムから地の果てに至る」までのキリスト者の伝道活動と教会発展の歴史がられています。そしてその主役は、「宣教命令と成就の約束」を与えられた復活の主イエスご自身であることを私たちに教えているのです。甦りの主イエスが、教会の伝道活動の(トップランナー)なのです。だから、信仰者の、伝道者の冒険が可能になります。昇天の信仰に生きるとは、この「伝道者の冒険に生きる」ことです。これが第2番目です。 昇天の信仰に生きる、第3番目は「希望に生きる」ということです。この地上において、キリスト者が、主イエス・キリストが天に昇られたということを証しするとは、どういうことなのでしょうか。今日この日本において、あまりにも少数者であり、何をやっても何の意味も持たないように思ってしまう中で、次第に絶望し、私たちは自分の戦いを放棄してしまうことがあります。しかし私たちキリスト者は絶望することからも解放されているのです。私たちの日々の小さな業が、時に何の意味も持たないように思われる小さな業が、天にある主イエスの御手の中で、どんなに豊かなりへと変えられていくことでしょう。

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