2019年10月6日 聖書:エフェソの信徒への手紙2章11節~22節 「神の家族」茶屋明郎牧師

 同じ血による家族の絆は強いし、心を通わせ、一つになれることが容易であるとは言え、
万全であるわけではありません。近親憎悪や骨肉の争いという言葉があるとおり、関係が破綻し、一つになれない場合もあり、同じであるから、一つになれることが、決まっているわけではありません。
ましてや違いがあるなら、さらに一つになることがより難しくなります。難しくなるどころか、違いによる壁が生まれ、分離、排除、憎しみ、差別が生まれやすくなります。
今日、持てる者と持てない者、強さと弱さ、優れている者と劣るもの、正義と不正などの違い、また国、民族、人種、宗教、思想などの違いからくる様々な壁があり、一つになれず、排除や対立、分離が深刻になっていて、また世界戦争が起きてしまうのではないかと危惧するような現象が至るところで起きています。
このような危機を迎えている中で、違いを超えて一つになることが求められ、必要とされ、どうすれば一つになれるかという大事な課題が突きつけられています。
本日の箇所には、十字架を通して、つまり、十字架による徹底的な裁きと赦しによって、良きサマリア人のように生きられたイエスの愛によって、律法からくる敵意という隔ての壁が取り除かれ、違いを超えて一つになれる家族のことが示されています。
律法を持ち、律法を行っている私たちは、正しい人間であり、神の祝福を受けていると誇っていたユダヤたちは、律法を行っていない異邦人は罪人としてみなし、軽蔑し、差別し、共に生きることをしていませんでした。
イエスは、律法学者たちに対して、完全な形で律法を行う義人は誰一人いない、みな罪人でないかと厳しく指摘され、皆赦しを必要していると訴えられました。
キリスト者を迫害していたパウロは復活のイエスに出会い、自分の義を誇っていた自分が裁かれ、粉々に砕かれ、イエスの赦しに生かされている罪深い自分に気づき、喜びに溢れ、希望を見出し、違いを受け入れ、認め、尊重し、違いを超えてともに生きていく新しい人間に生まれ変わったのでした。
罪人であると言われている人たちに寄り添い、憐み、共に生きていかれたイエスに出会い、赦されて、あるがままで愛されていることを知ったザアカイは、驚き、感激し、自分中心な生き方を捨て、他者のために生きる新しい人に生まれ変わりました。
イエスの愛によって新しく生まれ変わり、違いを受け入れ、認め合い、尊重して、違いを超えて一つになれる家族は、エフェソの教会の人たちであると呼びかけられています。
対立や差別があったエフェソ教会が神の家族であると呼びかけられているのは、おべっかいでもなく、理想を語っているのでもなく、そうではなく、期待されていたからです。
どうしてエフェソ教会を期待することが出来たのか、それは、教会は神によって造られた共同体であり、神の計画の中で実現しているからであり、キリストが共におられ、聖霊が働いているからであり、今は神の家族にふさわしくはないけれども、必ずいつかは神の家族としてふさわしい教会に成長していくと確信していたからであると理解できます。
このことが実際に実現していくために心に留めておくべきこととして挙げられていることは、神の憐みと恵みに固く立つこと、つまり神の憐みによって、罪深く、愚かな、弱くて、ふさわしくない者がゆるされて、ふさわしいものとして受け入れられているという信仰に固く立つことです。

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