2019年10月13日 聖書:創世記11章10~11節 Ⅰコリント15章12~13節「死者の復活」川本良明牧師

 ただいまお読みしたコリントの信徒への手紙は、使徒パウロが建てたコリント教会に宛てたものです。彼は今はエフェソで伝道していましたが、コリントを去った後、教会に党派争いや不品行、裁判沙汰、結婚問題、偶像の供え物の問題、貧民と金持ちの対立などが起こったことを、コリントから来たクロエの家の人たちから聞き、また教会からの質問状も受けました。彼は、キリストの体とはいえない教会の有様を見て、時には感情的な激しい言葉もありますが、しかし挨拶で、<キリスト・イエスによって召されて聖なる者とされた人々へ>と呼びかけています。彼は、いわゆる儀礼的な挨拶文などにはなじみのない人で、それだけに、一度主イエス・キリストとの交わりに招かれたコリント教会の人たちに対して、揺るぎない信頼と愛、希望を抱いていたことが伝わってきます。

 パウロは手紙で、教会の問題を1つ1つ丁寧に取り上げて、14章まで警告や勧告を述べた後、15章でくわしく復活について述べています。どうしてここでこんなに長く復活について述べているのでしょうか。これまでいろんなことを語ってきたけれども最後に復活のことが残っていたから、今からそのことについて語りますよ、ということではありません。先ほどお読みした13節に、<死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです>と書いています。
 普通なら、<キリストが復活しなかったら、死者の復活などないはずです>と言うところが逆になっています。しかもこれにつづけて、<キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は無駄です>と言い、そればかりか16節でも<死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです>と同じことを言って、さらにつづけて、<そうであれば、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあります。>つまり、<あなたがたは罪が赦されていない>と、ひじょうにきびしく語っています。
 これは、教会がこんなにひどい有様になっているのは、根本的には、<死者の復活がないから>が原因であるということを指摘するために15章が書かれているのです。パウロは、一般の牧師としてではなくて、まさに使徒として、死者の復活こそ教会の土台であると証言せざるをえなかったのです。

 イエスは、たしかに復活しましたが、復活する前、十字架に死にました。このことをたとえて言えば、2つの高く聳える山があって、一方の頂上に死んだイエスがいて、もう一方の頂上に甦えったイエスがいて、その2つの山の間の谷底に私たちが居るようなものです。つまり十字架に死んだイエスが甦えったことは、いかなる人間的な経験や洞察や知恵や体験などをもってしても理解できるものではない、これは神が示してくださらなければ理解できないということです。
 ところがコリントの教会の人たちは、キリストの復活を知っていたし、信じてもいました。しかしイエスの復活は、彼らの生活にも、教会の生活にも直接結びついてはいませんでした。教会を考えるときには、イエスの死とか復活とは関係なく、いろんなことをやっている、しかしそこには基本的なことが欠けている、すなわち死者の復活という教会の土台が欠けていると警告しているのです。

 キリストの十字架の死と復活とは、単なる出来事ではなくて、まず世の力と知恵はすべて神に裁かれて滅ぼされ、同時に神の力によって新しく生きることが約束されているということです。そう語るパウロ自身、それを経験していました。ご存じのように彼は、徹底的に教会を迫害して、滅ぼすのに躍起となっていた熱心なユダヤ教徒でした。その彼が教会の集まりがあると聞いて、ダマスコに向かっていました。その途中で、突然、天からの光が彼を照らして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が聞こえました。地面にひれ伏して「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えがありました。そしてイエスは、パウロを立ち上がらせて、「今からあなたは異邦人に福音を伝えなさい」と命じました。熱心なユダヤ教徒であったサウロが死んで、新しく使徒として生きる者となりました。この「死んで甦った」出来事は、彼にとって、ものすごい衝撃だったと思います。この衝撃は、当時、復活したイエスに出会った婦人たちの衝撃とまったく同じでした。

 しかし私たちはどうでしょうか。私たちは、キリストの復活を聞いても、同じようにおどろいたり喜んでいないことを告白せざるを得ません。それを妨げているのは何でしょうか。私は4つのことを考えます。①キリストの復活は古代人の神話物語である、②起こったのは二千年前の遠いパレスチナで起こったという時間と空間の隔たりがあるから信じるのは無理だ、③死は絶対で、死者の復活などありえないと確信している、④肉体は死んでも魂は生きているという霊魂不滅の思想に立ってキリストの復活を解釈している、ということです。

 この中で最初の3つを初代教会の人たちは、聖霊の力にあずかって克服していました。神話ではなく全くの事実であり、イエスは今、ここで、私と共に生きておられ、イエスは十字架の死において、私たちを脅かし支配している死に勝利したお方であるとして、生き生きと生きていました。聖霊とは、十字架に死んで、罪と死の力に勝利したキリストの霊です。聖霊とは、眠りこけている私たちを目覚めさせ、生きる力を与え、信仰に生き、愛に生き、希望に生きる者に新しく造り変えてくださるお方です。私たちは皆、そのことを経験しています。日曜日、目覚めさせられて教会に来ているのです。ところが私たちは、それを真剣に聖霊の働きであると見ないで、自分の力で来ていると思ってはいないでしょうか。

 ところが4つ目の霊魂不滅の思想は、聖霊にあずかれば克服されるという代物ではありません。この思想は、復活を信じていると思わせながら復活信仰を無力にする危険なものです。肉体は消滅しても霊魂は永遠に滅びないというこの思想は、摂理とか自然の秩序とか特に多いのは輪廻ですが、いろんな姿を変えて私たちの社会に浸透しています。たとえば東洋的な輪廻思想は、命を海にたとえます。あらゆる生き物は海に浮かぶ泡のようなもので、その姿形は仮の姿として生まれ、死んでは別の生き物に生まれ変わることを永遠に繰り返すというのです。まさに輪廻転生というのですが、これは聖書が語る復活ではありません。
 聖書は霊魂不滅を語りません。人間は、肉体も魂も神に造られていて、肉体と魂は調和して、魂によって肉体は統御されて、神を愛し、隣人を愛して生きる者とされています。ところがその統一が「罪」のために崩され、肉体と魂が分裂してそれぞれ独立しようとして暴走して、バランスが崩れ、心の病に苦しむのです。聖書が問題にするのは、この「罪」です。罪とは観念ではなく、具体的に心をむしばみ、悪を生み、堕落させ、虚偽に走らせ、破滅させ、死に至らせる力です。しかも私たちは、いくら罪ほろぼしやつぐないをしても「罪そのもの」を消すことはできません。私たちが経験したり苦しんでいる罪は、罪そのものが生み出して花を咲かせ、実を結んでいるもので、罪そのものではありません。

 この「罪そのもの」を聖書は根源的な罪と呼び、真正面から取り上げています。私たちは、罪に苦しみながらも、それがどこから来るのか知りません。しかし神は、罪がどこから来るのかを示すためにイスラエル民族を選ばれました。この民族は、無から有を造り出す神の力によって誕生したイサクの子孫です。だからいかに時代が変わっても、たとえ600万人のユダヤ人をナチスが殺そうとも、彼らが神に特別に選ばれた民族であることは揺るぎません。この民族に神は十戒を始めとする律法を授け、人間が根源的な罪を犯す存在であることを暴露しました。この民族は、律法によって根源的な罪を絶えず神から告発され、裁かれる歴史をたどっていますが、また彼らは、この根源的な罪を贖ってくださる救い主が自分たちのところに来られることを、神から約束された特別な民族でもありました。

 事実、神の御子は、この民族の一人としてマリアから誕生しました。しかし彼は、自分の民のところに来たのに、この民は彼を受け入れませんでした。彼らは偶像を崇むことはせず、じつに信仰深く、律法を守ることに熱心でしたが、神の言葉を歪め、無力にする虚偽の罪に陥っていました。虚偽は高慢や怠慢の罪を根本から支える罪であって、イエスが戦ったのはまさにこの罪でした。しかしイエスがこの罪を容赦なく暴露したとき、人々は彼を憎み、殺しました。他の誰かに対して罪を犯すというのではなく、神の御子を殺すという、罪の中でも最高に根源的な罪を犯したのです。ところが神は、御子を復活させることによって、彼らが、また人類が待ち望んでいた救い主が来られたことを宣言されたのでした。

 このイエス・キリストを信じるように、パウロはコリント教会の人たちに強く勧告したのです。イエス・キリストは、十字架において魂も肉体も消滅しました。彼は私たちに代わって、私たちが本来滅ぶべき死を、引き受けてくださいました。だからイエスは、十字架において肉体は死んだけれども、神のもとに帰った彼の魂が復活して弟子たちの間に現われたのではありません。彼は十字架において完全に死んだのです。そしてイエスは復活しました。たしかにそのことは間違いではないのですが、聖書は受身で書いています。イエスは復活させられたのです。神の御子でも神から復活させられなければ復活しない、それがイエスの復活です。ですから私たちの肉の体が永遠に死ぬことは確実です。しかし同時に私たちが、神によって復活させられるという約束も確実です。

 ところで、冬が過ぎると春が来ます、だから冬の中にすでに春があるのだとか、球根は花を咲かせます、だから球根の中にすでに花が秘められているとか、さなぎの中にすでにはばたく命があるのだとか、賛美歌にもありますが、これは輪廻に陥る危険があります。これは復活そのものではなく、復活のしるしです。霊魂の不滅は肉の体が延長しているにすぎないし、輪廻転生も罪の肉の体が永遠に続いているにすぎず、復活ではありません。復活とはまったく新しい出来事です。
 死は、罪によって台無しになっている肉体と魂という肉の体が完全に消滅することであり、復活は、肉体と魂が霊の体として復活することです。死によって肉の体は完全に消滅しますが、この体を霊の体として復活させるのは神の力以外にありえません。そして神は、私たちに復活を約束されています。それは終わりの日に完成されますが、キリストを信じ、愛と希望に生きるとき、今、ここで、肉の体の死と霊の体の復活が起こります。パウロ自身が、あのダマスコにおいて死んで復活しました。人は皆、洗礼を受けることを通して、死んで、復活することが、今、ここで起こることが約束されているのです。

 聖書はそのことを初めから語っています。先ほどセムの系図をお読みしました。その系図の前に創世記5章にアダムの系図があります。エデンの園で罪を犯してエデンから追放されたアダムの子孫の系図ですが、たとえば,「セトは…、エノシュをもうけた。セトは、…年生き、そして死んだ。エノシュは…、ケナンをもうけた。エノシュは、…年生き、そして死んだ。」とあり、「生きて、死んだ、生きて、死んだ」と、まるで輪廻のように繰り返しています。ところがこの系図に書いてある人類は、すべてノアの洪水で滅ぼされました。
 つぎにセムはノアの洪水の時に生き残った3人の息子の1人です。その系図を見ると、たとえば、「アルパクシャドが三十五歳になったとき、シェラが生まれた。アルパクシャドは、…年生きて、息子や娘をもうけた。シェラが三十歳になったとき、エベルが生まれた。シェラは、…年生きて、息子や娘をもうけた。」とあり、「死んだ」という言葉がありません。アダムの系図は「死んだ」をくり返していますが、セムの系図は、「生きた、生きた、生きた」とあって、明らかに希望を表わしています。このように聖書は、「生きよ!」と語っています。けれども命がすべてに優先するのではなくて、命を授けるお方がすべてに優先して、だから命が大切だというのです。命を絶対化するのは、死を絶対化するのと同じです。私たちは、復活のイエスが聖霊として親しく臨んで、「生きよ!」と与えてくださる命を楽しむことが許されていることを心から感謝したいと思います。

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