2019年10月27日 聖書:マタイによる福音書6章22~23節「負けることの意味」豊田護兄

 現代は勝つことのみが大切で、負けることには意味がないという風潮が一般的にあります。本当にそうでしょうか。これはかつて第一次世界大戦の後、莫大な賠償金をドイツに要求したアメリカのウォール街の連中から広がり、勝つことは正義で金になり、負けることは悪でお金にはならないという考え方へ世間が傾いて行った頃からより強く広がった思想のような気がします。

特にスポーツの世界も大きく変わり、勝つこと=賞金ということが当たり前になっています。今もめているオリンピックも、お金が儲かるから8月の夏にやるのですから、元々おかしな所から始まっています。昔「オリンピックは勝つことではなく参加することに意義がある」と教わりましたが、今は誰もいいません。そのくらい考え方が変わったのでしょう。

負けることには大切な意味があります。「精進」という言葉があります。日々努力するという意味です。勝つこと負けることに欲やお金が絡んでいると、負けた人の努力や精進は報われません。でもお金や欲とは関係なければ、また世間の評価など関係なければ、負けたことに大きな意味が生まれます。反省しこ次の機会に生かして行けるのですから、こんなありがたいことはありません。精進は充分に報われるのです。

人間の一番優れている所は、不完全であると言うことです。プログラムされ完璧に行動する機械にかけていることはこの不完全さです。かつて「ファジー」という言葉で盛んにいっていたのはこのことです。色々な状況に接して柔軟に対応出来る力は、失敗する経験からしか学習出来ないのです。失敗していいし、負けていいのです。そこで立ち止まりゆっくり考える事で人は賢くなるのです。負けること=考えることであり、初めて「精進」という言葉に意味と価値が生まれるのではないでしょうか。目先の金儲けや欲にばかり染まっていると、大切な負けることの意味を見失う事になります。

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