2019年11月3日 聖書:詩編51篇3~11節 エレミヤ書17章9~12節「来し方、行く末」 世良田静江牧師

今日は信徒の日。召された方々を思う永眠者記念礼拝です。召された方々が、どのようにして歩み、生き、私共に何を指し示そうとされたのか、伝えようとしたのかを心にとめて考えたいと思います。必ず教会にはこの方がいなかったら教会はどうだっただろう?と思える牧師や信徒の方がいます。この宮田教会では服部団次郎先生が中心となってこの教会が形成されたと思うのです。この先生を中心に信徒の方々が支えつながり、教会は今日に至るまでこのように礼拝を守る営みが続いています。
スウェーデンボルグという人が臨死体験を分厚い本で出していますが、使徒信条にも書かれており「主はよみに下り、三日目に蘇られた」と私共は唱和します。死後の世界はどうなるのだろうと考え込むとそこだけに留まってしまいますが、さんびか21の385番に天に召された兄弟姉妹を友と呼び、四季折々に信仰に生きた美しい誌があります。この教会の祖であられた服部先生を取り込むなら
花彩る春をこの先生は生きた   いのち満たす愛を歌いつつ
悩みつまずく時先生は言われる   生きなさい、働きなさい、この地で
緑もえる夏、汗のしたたる中で坑夫の人たちと冷たい水を分かち合い、冬の寒さに命をあたためつつ、筑豊に住む人々を思われたでしょう。エレミヤという預言者もそうでした。イスラエルを愛し、彼は神に帰れと叫びました。BC597 イスラエルの王、セデキヤは新バビロニア帝国の攻撃を受け、王は両眼を抉られ、青銅の鎖で巻かれてバビロンに連行されるという悲惨な出来事。エレミヤの悲痛な叫び聴こえます。神に帰れとエレミヤは受難の預言を告げると神の命令で妻もめとるな、友も持つな、神だけを友とし、生涯を孤独のうちに生きた人でした。唯、エレミヤは神と共に歩み、イスラエルの神への立ち返りを求め続け祈り続けた人でした。私たちはどうでしょうか。

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