2019年11月10日 聖書:出エジプト3:1~12、ヨハネ21:18~19 「モーセの召命」 川本良明牧師

 モーセが神から召命を受けた場面は、私たちにいろんなことを教えてくれます。召命を受けるまでの彼は、長い間、ミディアンの地で平和に過ごしていました。神はその平和な生活から出て、エジプトに行くように命じたのでした。
 話は80年前にさかのぼりますが、モーセはエジプトで奴隷とされていたイスラエル民族の家庭に生まれ、当時は迫害の嵐が吹き荒れていたときでしたが、生後まもなく籠に入れられてナイル川に流されました。いっさいを神にゆだねながらも、家族はどんなに辛かっただろうかと思います。ところが、死んだと思ったわが子が、エジプト王女に保護されて戻ってきたとき、どんなに大きな喜びに包まれたことか、同時に神の深い意図があるのではないかと感じたと思います。

 成人したモーセは、奴隷の悲惨な現実を見て、エジプト王子である自分と激しく葛藤する中で、神々に失望し、「神はなぜこの現実を許しているのか、いつまでこんなことがつづくのか?」と叫ぶようになり、正義感からイスラエル人を虐待するエジプト人を殺害しました。しかし帝国の巨大な壁に挫折した彼は、遠くミディアンの地に逃亡して、二度とエジプトに戻らず、そこに定住し、結婚し、落ち着いた平和な毎日を送ることになりました。彼が心から平和な生活を過ごすことができたのは、持ち前の正義感で助けた女性たちの父親である祭司エトロをとおして、神ヤハウェに出会ったからだと思います。

 じつはエトロは、後に出エジプトに成功してイスラエルの民と共に荒れ野にいたモーセを尋ねています。久しぶりに再会した彼は、モーセをとおして神がイスラエルの民をエジプトから救い出したことを聞いて、次のように祝福しています。<主をたたえよ、主はあなたたちを…救い出された>(出18:8~12)。こう言って犠牲をささげ、イスラエルの人たちと食事をします。「主」とは神ヤハウェの名前です。モーセはこのエトロをとおして神ヤハウェに出会ったのです。そして神ヤハウェとの交わりの中で、彼はエジプトで受けた傷を少しずつ癒されていき、やがてエトロの家族の一員となり、羊飼いとして平和な40年近くを過ごしたのでした。

 主の恵みのもとに平和な毎日を送っていたモーセと対照的にエジプトではどんなことがあったかというと、それは2章23~25節に書いています。イスラエルの人々が、かつてない過酷な状態におかれていることを伝えています。1つは、<それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ>こと。この王こそラメセス二世で、在位66年、90才の長寿、身長183㎝、24才で王位に即いて、イスラエルの人々を強制労働で虐待し、モーセの誕生物語のように、まさに民族絶滅の危機にさらした王です。ちなみに在位期間が最長の天皇は昭和天皇です。一番ひどい時代が来たのもこの天皇のときでした。朝鮮民族がどんなにひどい目に遭ったか、唐突かも知れませんが聖書をよく読むとラメセス二世と重なります。また1つは、<労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた>。これはいろんな抵抗したが万策尽きて、神に助けを求める以外にないことを表わしています。今1つは、<神は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた>。イスラエルの解放は、神が全人類を奴隷制度から解放する第一歩であるという意味です。神が思い起こされた契約に基づいて天地は創造され、全人類が創造されているからです。最後に、<神>が5回も書かれています。神の強い関心と行動を起こされることを述べています。事実、神は、モーセを用いて奇跡的にイスラエルをエジプトから解放することになります。

 しかし3章にはかつての正義感に燃えたモーセはいません。彼は80才の老人でした。聖書は、<あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た>と語って、彼の心境を見事に伝えています。「荒れ野」は、茫漠として広がる世界であり、虚しさを表わしています。彼の心の奥底には、何かしら虚しく孤独感があり、無口で、気がつくと神の山ホレブに向かっていました。そんな彼だからこそ神は、彼を用いようとされたのではないかと思うのです。かつての正義感に燃えた若いモーセではなくて、今80の老人となり、虚しさと孤独感にある彼だからこそ大きな使命を与えようとされている、まさにモーセの召命はここに出てくるのです。私たちから見れば長い長い人生ですが、神の目から見ればほんのわずかな時間だと思いますが、それでも神はこの時を待っていたように感じです。そしていきなり声をかけないで好奇心をくすぐり、燃える柴の木の不思議な光景に夢中になったところで、<モーセよ、モーセ!>と言ってこっちに向かせて、声をかけました。<「近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」>。「履き物を脱ぐ」とは「自我を捨てる」という意味です。そして神は、まず自己紹介をします。<私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だ>。それからおごそかに命じました。<わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、……行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ>。

 ところがこの神の言葉にモーセはひるみ、何度も断りました。「私は何者ですか。どうしてそんなことをせにゃいかんのですか」「行ってもいいですが、自分が遣わされたことを証明できませんよ」と言って抵抗し、4章を見るとじつに面白いやり取りです。「誰も信用しません」と言うと、神は「お前の杖を投げて見よ」と言い、投げると蛇になります。「その尻尾を取って見よ。」取ると元の蛇になるなど奇蹟を起こして何とか彼を従わせようとします。しかし彼は言います。「私は弁が立ちません。」すると神は、「一体、誰が口や目や耳を与えたのか」と迫ります。それでも彼は頑固に抵抗して、「誰か他の人を見つけて遣わしてください。」すると神はとうとう怒ってしまいます。本当に面白いやり取りです。しかし、面白いとはいっても、神は真剣でした。

 彼は今、神の申し出に対して、ああじゃ、こうじゃと抵抗していますが、彼はエジプトの王子として40年過ごし、また神ヤハウェを信じて羊飼いとして40年過ごしてきた、じつに知恵と経験に富んだ老人でした。ですから彼は、その知恵と経験に立って抵抗しました。彼はエジプトがどんなに巨大な帝国であるかをよーく知っていました。だから何とかして神の申し出を断ろうとしたわけです。
 一般に「老人の知恵」というのは、いろんな体験を通して、自分なりにたくわえた知恵をもとにして、若い時のようなあやまちを犯さないことだと思います。しかし、聖書が語る「老人の知恵」というのは、そうではありません。それまで自分中心であったことから神中心の生き方に変えること、それが聖書の語る老人の知恵です。このことを先ほどお読みしたヨハネ福音書から聞きたいと思います。

 ヨハネ福音書21章は、復活したイエスと弟子たちがガリラヤ湖畔で食事をした後、イエスがペトロに3回、「わたしを愛しているか」と聞くとペトロが3回答えるのですが、本当にありありと思い浮かぶ場面です。「ペトロよ、わたしを愛するか」と言うイエスに、「主よ、あなたは私をご存じです」と言うと、「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。またしばらくして、「ペトロよ、わたしを愛するか」と言われて、「主よ、あなたは私をご存じです」と言うと、「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。3回目にまたイエスが、「ペトロよ、わたしを愛するか」と言われたとき、ペトロは、「主よ、あなたは私を…」と言いかけてハッとして声がつまりました。あの大祭司の庭で主は3回知らないと言ったのですが、3回目の時にイエスと目があい鶏の鳴く声を聞いて激しく泣いたことを彼は思い出したのです。そこで彼は言うのです。<主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることをよく知っておられます。>

 この後、イエスは不思議なことを言われます。<「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」>と語っています。このイエスの言葉は、若いときにはいろんなことに興味を持ち、神を忘れることもあろう、そういう若いときの移り気を戒めたのではありません。そうではなくて、若いときは、「自分が神を見出した、自分が信じるようになった」というように、「神を知ることも神を信じることも自分が…」と自分中心であったけれども、年老ってみると、「神さまの方から来てくださった、神さまの方から出会ってくださって、神さまが私に信仰を与えてくださった、神さまが聖霊によって私を目覚めさせ、立ち上がらせ、ここまで導いて下さったのだ」と、「自分が」から「神さまが」と主語が変わることを、イエスはペトロに語られたのです。

 本当は若いときから神が導いて下さって、神が主語なのですが、私たちはどうしてもそうではない。だから召命を受けるのは、ある時からではなくて、極端に言えば生まれたときから神がその人に召命を与えておられということではないかと思うのです。神の約束と戒めに従って生きることに老いも若きもありません。しかし、老いていく中で、自分の無力、非力を知れば知るほど、若い時には十分に見えなかったことが見え、分かってくる、それが老人の特権であり、新しく生きるチャンスでもあります。そのチャンスを神は「召命」として与えられます。聖書は「モーセの召命」と小見出しをつけています。確かに神は、ここでモーセに特別な使命を与えていますが、召命とは、一回限りのことではありません。モーセは、神ヤハウェに出会って召命を受けたからミディアンの地で家庭を持ち、羊飼いとしての生活を送りました。仕事や職業は召命というよりも召命を受ける場所です。それはいろいろあります。専業主婦や子育て、介護や病室も召命を受ける場所です。しかし神が人を招くのは、固定した場所を超えて、自由に、突破してそこから呼び出します。神は自由ですから、召命を受けた場所で一生懸命がんばっていることは絶対ではありません。そこから呼び出すことはいくらでもあります。ですから私たちは、今いる召命の場所で、「これが神からの召命だ」ということで誠実に励みながら、しかし、いつでも神の招きに応えて出ていく備えをしているべきなのです。モーセが求められたのはそういうことでした。

 召命とは一回きりではなく継続的です。ペトロはガリラヤ湖畔で漁師をしていたとき、「わたしに従って来なさい」と召命を受けました。しかしその後の歩みはどうでしょうか。本当に情けない、面目丸つぶれの歩みでした。イエスの受難の予告を諫めると「サタン、失せろ」と言われて面目丸つぶれです。また「主よ、私はどこまでもあなたについて行きます」と言った後、大祭司の庭で三度イエスを知らないと言って面目丸つぶれです。ですがこのペトロにイエスは、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と告げています。召命とは、それを新しく受ける前のことが否定されるのではなく、より豊かに、用いられ、生かされます。なぜなら受ける前にも神が共に聖霊として内におられたからです。このことは、私たちはいろんなところで見ることができると思うのです。

 先週、ラグビーの南アフリカ優勝で紹介されたマンデラ大統領の生涯も1つの例だと思います。反アパルトヘイト運動で27年間強いられた獄中生活で聖書に出会い、出所したときの第一声は、白人との和解の呼びかけで、今まで以上に辛く困難な道を歩むことになりますが、暴力闘争の闘士から和解と平和の闘士へと変わる姿に、彼の内に働く主の力の証しを見ました。詩編71編の詩人は、「神よ、わたしが老いて白髪になっても、…御腕の業を来るべき世代に語り伝えさせてください。」と、後に続く者たちのために祈ることを老いる者の使命としています。アブラハムが旅立ったのは75才、モーセが奴隷解放のために立ったのは80才でした。聖書だけなく、トルストイが家出したのは晩年でした。小倉教会の故崔昌華牧師は亡くなる5ヶ月前、東京で関東大震災時の朝鮮人大虐殺の謝罪を求める集会で力強く講演し、2ヶ月前には北九州市長に立候補すると語りました。それらは崔先生がずっと戦ってきた課題でした。それらを最期まで果たそうとしたのは、永遠の住まいに行く前準備のためのすばらしい恵みに包まれていたからだと思います。

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