2019年11月17日 聖書:マルコによる福音書16章1~8節 「驚きの信仰」大薮善次郎牧師

 ある神学者が「イエスを語ることは、自分を語ることである。」と言った。
もっと厳密にいうと「イエスと出会って、自分はどう変えられたか」である。
これは正しい。
 私は1937年生まれ、82才である。この三月まで53年間牧師をした。西南学院に入れられてキリスト教に出会い、高校三年の時受洗した。父親から殴られた。勘当された。そこで決心した。キリスト教を極めてやろうと関西学院大学神学部へ進んだ。
 印具徹先生に出会い、信仰の何たるかを示された。卒業して新森小路バプテスト教会の副牧師、当時教会ではいろいろな社会運動に取り組んでいた。べ平連、フォークソングスクール、文学学校等、主任牧師は多才な人だった。しかしそんな中で学園紛争と同時に、牧師の権威主義が問題となり、教会は解体した。無職となったけれど、働きながら牧師をすることにした。服部団次郎牧師と出会ったのはその時であった。
 働きながら牧師をすることは、体力の消耗が烈しく関学同級生の薦めもあり、
教団の教師に転籍した。福山東教会で十年、東郷教会で二十九年であった。
 これが私の略歴である。
 山頭火の詩に「真っ直ぐな道で淋しい」というのがある。私の牧師生活は、真っ直ぐではなかったけれど、それなりの紆余曲折を通して、楽しいものであったことを告白できる。多くの人に出会い、苦労もしたけれど、今、思い出すとそれぞれが神の計画であったように信じるのである。そのためにはまず、神が私たちに与えてくださったキリストの復活である。これに驚いて神のなさる不思議な業を信じて
生きることは、ある面では真っ直ぐな道なのだ。しかし、それは淋しい道では
なかった。いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。全てのことについて
感謝しなさい。という道であった。

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