2019年11月24日 聖書:マタイによる福音書11章28-30節「来なさい、イエスのもとに」楊 周漢牧師

秋は「読書の季節」又は「思索の季節」などの名前が付けられています。緑豊かな夏の葉っぱが彩り落ちる様子を見ながら、自分の生を振り返え、人生の意味を問う人が増えるからだと思います。私は秋を「祈りの季節」だと思います。
今日の聖書箇所を理解するために11章全体を読むことは重要だと思います。11章前半部はバプテスト・ヨハネが弟子たちをイエスに送り、質問する内容が記録しています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければならなりませんか。」この質問に、当時イスラエルの人々が如何に長い期間、救い主メシアを待っているのか、その苦しみが感じられる叫びのような質問であります。イエスはその質問に断言の言葉でお答えにならずに、「目が見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、…貧しい人々に福音を告げ知らされている。」という、イエスのもとで何が起きているのかを証言しています。
そして11章20節からは「数多くの奇跡にもかかわらず、心を改めていない町」について語られています。イエス・キリストがなさる奇跡はただ身体的な事件だけではなく、心と霊(たましい)の奇跡である「救いの事件」(心と霊は新たになる事件)である事を示唆しています。福音書に記録している多くの奇跡の記録(重い皮膚病の人の癒し、生まれ付き目が見えない人の癒し、等々)は深く黙想すれば、心とたましい(霊)が新しくなった奇跡の記録である事が解ります。
28-30節に、イエス様は私たちに「休み」、「安らぎ」を約束しています。しかし不思議な事は「軛」、「わたしの荷」という言葉が登場します。イエス様が私たちに与えようとする「安らぎ」は「世の中の安らぎ」とは違います。これは12章の「安息日」にめぐってイエスの教えを読んだら解ります。イエス様は真の安息日について教えています。それは「人を生かす事」、「人を助ける事」、「善を行う事」です。
イエス・キリストが私たち与えようとする「安らぎ」は、つまり「愛し合う事」です。愛し合うことが真の喜びであり、安息そのものであります。愛にはお互いに重荷を背負うことがあります。しかし愛の中にある「イエスの軛」は負いやすいです。愛の中にある「イエスの荷」は軽いです。

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