2019年12月8日  聖書:ルカ による福音書2章6~7 「飼い葉桶に眠るイエス・キリスト」 川本良明牧師

 クリスマスの時期になりましたが、先ほどお読みした聖書には、イエスの誕生の次第が書かれています。マリアの初子として産まれ、布にくるまって、飼い葉桶に寝かせられたイエスとはいったい誰なのか。あえて「誰であったか」とは言わずに「誰なのか」と言うのは、クリスマスとは、二千年前に生まれて、生き、やがて死んだ人の生涯をおぼえて、その誕生を祝ってきた記念の祭りではないからです。たしかにイエスは、生まれ、生き、短い生涯を終えました。しかし私たちとちがって、全人類の中でただ一人、人間イエスとして死者の中から復活して、40日の間、弟子たちと生活を共にして、その後、天に昇って神の右に即かれたからです。しかも聖霊として降って、見えないけれどもこの地上において、罪と悪と死に勝利したお方として、私たちを招いて、共に生きるための教会を建てられているからです。マリアはその後、数人の子どもを神から授かりました。だから人間イエスは、マリアの初子ではありますが、死者の中から最初に生まれたお方であって、すべての人の初子、すべての人の救い主・キリストでもあります。

 「すべての人の救い主」とはどういうことでしょうか。それは復活して、過去・現在・未来の地上の時間を超越した永遠の時間に生きるお方として、全能の神でありながら私たちに仕える者となり、最高に聖い神でありながらその聖さを失うことなく卑しい身分となり、永遠に生きる命の源でありながら、死んで死を滅ぼしたお方として、江戸時代の人、鎌倉時代の人、これからの時代の人であろうとも、またどんな環境の人であろうと、すべての人の仲間となり、友となり、親となり子となり、その傍らにいて、永遠に生きる全能の神としてその人を慰め、力づけ、死に勝利して永遠に生きる者としてくださるお方であるということです。

 ところがこの救い主に対して、聖書は、「宿屋には泊まる場所がなかった」と語っています。迎えてくれる人が誰もいなかったのですが、それは遠くナザレから身重のマリアを連れていたので到着が遅かったことが理由ではないようです。ベツレヘムはダビデ王が生まれ育った由緒ある町で、「ダビデの町」と呼ばれ、その子孫が多く住んでいました。ところがヨセフはダビデの血筋を引く人だったのにどの親戚からも招かれなかったのは、「マリアの妊娠は、いいなずけのヨセフと関係がないようだ」という話が広がっていて、一族の冷たい排除があったからだと思われます。そしてこのことは、じつはこれからのイエスの生涯にずっとつきまとっていきました。マリアの初子として生まれたということは、造り主である神が、神に造られた世から排除される者となったということです。

 また聖書は、「飼い葉桶に寝かせた。」と語っています。神は単に人と成ったのではないということです。神が人間となったということは世界中の神話にあります。日本でも天皇を現人神と称んでいます。けれどもイエスの誕生は、神が単に人と成ったということではなくて「飼い葉桶に横たわる」ほどの人と成られたと語っているのです。聖書の編集に関係することですが、福音書はイエスがいなくなって何十年も経ってから書かれたものです。だからイエス誕生物語もイエスの生涯をふり返って、後から作られたものです。ですから「イエスが飼い葉桶に寝かせられている」というのは、その生涯がどんな生涯であったかということを伝えようとしているのです。

 この世は、神の御子が宿屋に泊まることを拒みました。しかしこの世は、救い主が別の場所で産まれることを妨げることはできません。その別の場所とは、後にもっと暗い場所で殺されますが、暗い家畜小屋の飼い葉桶の中でありました。このことは、神は、排除され、モノ扱いされ、低い者とされている人たちのもとに身を寄せておられる神であるということです。このことは、この筑豊という地域においても、また日本社会においても、また世界的な領域においても言えます。

 例えば日本社会で言えば、外国人に対して「同化と排除」の政策で低い者としています。とりわけ在日韓国・朝鮮の人たちに対する「同化と排除」の政策は、戦前と変わらず今なお根強く行っています。3世、4世、5世になっても日本国籍を認めません。日本で生まれ、育ち、日本の学校に通い、故郷は日本であるのに外国人扱いしています。最近政府は幼児教育・保育の無償化しましたが、在日韓国・朝鮮の人たちに対しては排除しています。またグローバルな目で見ますと、先ほどの司会者の祈りにありましたが、中村哲さんのことを思います。彼のことを見ますと、何か気負ってやってきたのではなく、目の前のことを一つひとつ、やむにやまれずにやっていて、気がついたら今のような大事業になっていたというものです。支援は大事ですが、彼が訴えていることを考えると、足もとで同じことが起こっていることに目を向けて、私たちの場所で同じことをやることが大事なのではないかと思います。彼が神さまに用いられていたように、私たちもまた神に用いられていることに目を向けるべきではないかと思います。もしも教会が、人々から排除され、弱い者とされ、モノ扱いされている人たちに対して無関心であるなら、キリストの看板を外して、キリストに会いに出て行くことが求められているのではないかと思います。キリスト不在の教会はなくなってもよいのであって、それほどに真剣にキリストの誕生を考えなければならないと思います。

 しかしまたもし、「この救い主を迎えるためには、それにふさわしい人間になる必要がある」とか「もっと善い生き方をする人間に成らねばならない」と考えておられるなら、断じてそうではないと言わざるを得ません! イエスを前にして表面づらをよくして何の意味があるでしょうか。そうではなくて、貧しさと破れ、罪悪と汚れ、嘆きとうめきと死につつある姿、それこそ私たちの飼い葉桶ではないでしょうか。そこに迎え入れることをイエスは待っておられます。そして、私たちの飼い葉桶にイエス迎え入れるなら、イエスは、私たちの心に愛の掟を刻み込み、神を愛し隣人を愛する人間に造り変える約束を果たしてくださるのです。

 脇道にそれますが、先週満77になって、喜寿の祝いを少額ですが送ってきました。なぜ77才かというと喜寿の「喜」を草書体にくずすと七が3つになるからです。日本社会の伝統的な祝い事でキリスト教とは無縁ですが、七が3つであればキリスト教と関係づけることができます。あの「イロハニホヘト…」の歌を縦に7つづつ並べていくと、一番上は「イチヨラヤハエ」、一番下は「トカナクテシス」と7つ並びます。また一列目の最初は「イ」、七列目の最初は「エ」、最後は「ス」となります。「イチヨラヤハエ」の「イチヨラ」は一張羅つまり最高という意味、「ヤハエ」は旧約聖書の神の名ヤハウェで、最高の神ヤハウェとなります。また「トカナクテシス」の「トカ」は罪咎で、罪がなくて死んだとなります。単なる俗説なのです。しかし、「最高の神ヤハウェが、人間イエスとしてこの世界に来られ、罪がないのに死んだ」と読んでみると、イロハニホヘトの歌が聖書の中心的メッセージに変化するという何とも面白い話です。

 天地を創造した神は、人類の中からアブラハムとその子孫イスラエルを選んで、モーセを通して十戒を授けて神の御心を示し、預言者を通して救い主を遣わすことを約束されました。そして神は、約束どおり人間イエスとなって誕生しました。これがクリスマスです。イエスは神の御心に従うように求めましたが、人々は罪のないイエスを捕まえて十字架に殺しました。この出来事が何のために起こったかというと、今なお反逆に反逆を重ね続けている私たち人間を救うために、私たちに代わって、罪のないのに神に罰を受けて、罪を贖うためでありました。しかしそのイエスの十字架の贖いが、父なる神にとってどんなに苦しいことであったかを思います。自分の愛する独り子を殺してまでも人の罪を赦すということをすることは、どんなに辛いことかと思います。

 イエスは、十字架につけられた時点までは、まだ神の御手の支えがあったのですが、最後になって、十字架の上で大声を出して、「父よ、父よ、どうしてお見捨てになるんですか」と叫ばれたその時点では、完全に神に捨てられたと感じて、父に助けを求めました。けれどもその愛する独り子の叫びにじっと耐えている神の傷みがどれほど大きかったことかと思います。これがクリスマスを迎えるにあたって、私たちが考えなければならないところではないかと思います。しかし、これほどまでに大いなる痛みをもって私たちを救おうとされている父なる神を思うとき、私たちに求められていることは善い行ないをすることなのか。それとも何か神さまのために別のことをすることなのか。そうではありません。そうではなくて、ただ、ただ、私たちのために、私たちに代わって示されまたしてくださった神の愛を受け入れ、その計ることのできない神の愛に、自由な愛と喜びと感謝をもって応えることであります。七が3つ組合わさって喜びの文字になるように、神の救いを心から喜び、クリスマスを迎えたいと思います。

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