2019年12月22日 聖書:創世記3:1~10、黙示録22:20 「あなたはどこにいるのか」川本良明牧師

 先ほどお読みいただいた聖書の物語は、アダムとエバの物語であります。神様は、エデンの園を設けて、最初の人アダムをそこに置かれました。その後、<人が独りでいるのはよくない>と言われて、アダムに最もふさわしい助け手としてエバを造られました。エデンというのは、「喜びとか楽しみ」という意味があるそうで、二人はエデンの園で、土を耕し、神様が備えてくださった木の実を食べて、楽しく、幸せな毎日を過ごしていました。
 ところがある日、二人は蛇に唆されて、神様が食べてはいけないと言われた善悪を知る木の実を食べてしまいました。すると彼らの目が開けて、自分を恥じるようになりました。そして神様が園の中を歩く音を聞くと、急いで木陰に身を隠しました。そこで神様は、彼らに<あなたはどこにいるのか>と呼びかけられました。この言葉は、アダムとエバを探している言葉ではなくて、「あなたはそんなところにいるはずの者ではなかったのではないか」という意味だと思います。元来、明るく、楽しく生きるようにと造られた者だったのに、どうしてそんな暗いところに身を隠して、おどおどしながら暮らしているのか。わたしは、あなたがそんな生活をするようにと造った覚えはない、と言われているのです。そこで今、神様から、「あなたはどこにいるのか」と聞かれたとき、私たちはどのように答えることができるでしょうか。このことをマルコによる福音書5:21以下で伝えている物語から少し考えてみたいと思います。

 物語は、ヤイロという人がイエスの足もとにひれ伏して懇願することから始まります。<娘が死にそうなのです。助けてください。>とお願いすると、イエスは彼と一緒に出かけました。大勢の群衆が、押し迫るように後に従っていましたが、突然、イエスは足を止めました。そしてふり返って、<わたしの服にふれたのは誰か>と言われました。イエスの足を止めたのは1人の女性でありました。彼女は、社会のきびしい掟のもとで12年間も苦しみつづけていました。それは生理や出産で出血すると、一定の期間、汚れた者とされるという掟であって、その期間を過ぎても出血が止まらないときには、さらにきびしい掟がありました。汚れは、自分が汚れるだけでなく、彼女が触れたものも彼女に触れたものもまた汚れるとされたので、彼女がどんな状況に置かれていたか想像に難くありません。聖書には、<多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった>と書いています。

 そのように彼女は追いつめられていました。その彼女がイエスのことを聞いて、<群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた>のでした。病気の苦しみと社会的な差別の中で、この彼女のしたたかさは、どこから来たのかと思うのです。彼女はこれまで何度も打ちのめされながら、「神様、どうしてですか? なぜ私はこんな目に遭うのですか?」と何度も何度も問いつづけているうちに、神様が身近なお方となってきて、このきびしい掟が、彼女を神のもとへと導く恵みの掟となっていきました。そして彼女は、すべての苦しみから解放する救い主が、キリストが、かならず来られることを知りました。ですから彼女は、その日を待ちながら、服を着ていれば外からは分からない出血の汚れを隠して、買物をしたり、人と接していたと思います。人ごみにまぎれてイエスに近づいて、触れればイエスもまた汚れるだろうけれども、しかし汚れを癒やしてくれるはずだと信じて、その服に触れる彼女の姿に、したたかな信仰を見るのです。

 一方イエスは、だれかが自分に触れたのに気づきました。<イエスは、自分の内から力が出ていったことに気づいた>と聖書は書いています。彼は、触れたのが彼女であり、父なる神が自分を通して彼女を癒やされたことをすぐに知りました。そして彼は、自分に触れたのが彼女だと知りながら、あえて探そうとされました。そのイエスの眼差しは、あのエデンの園で木の間に隠れているアダムとエバに、<あなたはどこにいるのか>と呼ばれた神の眼差しと同じでありました。自分の汚れを恥じて隠し、それがばれないようにと後ろから触れる、その彼女に対して、イエスは、彼女を大勢の人たちの中に立たせて、神を畏れ敬う者となり、イエスを中心とする交わりの中へと招こうとされたのです。事実、彼女の中に畏れが生じ、すべてのことをありのままに告白しました。するとイエスは、<娘よ、あなたの信仰があなたを救った>と言われました。それは何かを信じ込む信仰ではなくて、イエス・キリストが救い主であると知って、彼にまったく信頼するという信仰です。また「あなたの信仰があなたをいやした」とは言われないで、<あなたの信仰があなたを救った>と言われています。ですから彼女は、このイエスの言葉によって、自分の信仰がどうじゃこうじゃと詮索することから解放されて、キリストへの信仰、キリストを信じる信仰に生きる者へと変えられたのです。

 物語は、出血の病気の女性の話からふたたびヤイロの話に戻ります。イエスがまだ彼女に話しているとき、ヤイロの使いが家から来て「娘が亡くなった」ことを告げました。この「娘」という言葉は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われたときと同じ言葉です。救われる娘と亡くなる娘が対照的に書かれています。ヤイロは娘が亡くなったことを聞いてどん底に突き落とされました。しかしそれを聞いたイエスは間髪入れず、ヤイロに、<恐れることはない。ただ信じなさい>と言われました。そして彼の家に着くと、少女のいる所に入って、その手を取って、<起きなさい>と言われると、少女はすぐに起き上がって、歩き出しました。このように仰天するような出来事で物語は終わっています。

 ところが、じつはこの物語は、破れた家族が、全く新しい家族の交わりへと変えられていったという神の恵みを伝えている物語であります。ぼろぼろに破れてしまっていた家族が、元の家族に戻るのではなくて、その傷を傷として抱えながら、全く新しい家族の交わりへと変えてくださる神の恵みを伝えているのです。ヤイロと12才の娘と出血で12年間苦しむ女性は、家族ではなかったかと思います。娘の年令と出血が続いてきた年月が同じであることから、彼女の出血が始まったのは娘を出産したときからだったとしても不思議ではないと思うのです。それに聖書は、ヤイロの家に来たとき、<イエスは皆を外に出し、子どもの両親と三人の弟子だけを連れて、子どものいる所へ入って行かれた。>と書いています。突然、「両親」という言葉が出てくるのです。会堂長でも女でもなく、「両親」と書いているのは、バラバラになっていた父親と母親と娘が、イエスによって、イエスを中心とするまったく新しい交わりに入ることを予感させてくれます。

 この物語から、破れた家族の中にキリストが来てくださって、全く新しい家族の交わりを作り出してくださることを教えられます。破れる前の姿に戻るのではなくて、破れた後、ずっと傷つけあってきたそれぞれの傷を負いながらも、全く新しい家族の交わりへと導かれて行くということであります。「私の体を元に戻せ!」と叫んでいたカネミ油症患者の一人であった紙野隆蔵さんは、その苦しみの中で、「自分が油症患者になるはるか以前に水俣で苦しむ人たちがいた。そのことに私は全く無関心であった。そういう人の痛みの分からない無関心な自分に戻ってどうなるのか。自分はもう元の体に戻せとは言えない。」と言われていたと犬養牧師から何度も聞いたことがあります。

 そのように、今、キリストが来てくださって、単なる回復ではなくて、全く新しい家族の交わりへと導いてくださることが述べられていると思います。すなわちアダムとエバが罪を犯して以来、この世界はエデンの園ではなくなってしまいました。ヤイロの家族はその延長の姿でした。しかし神は御子イエス・キリストとしてこの世界に来られ、この世界をエデンの園に変えることを約束されました。なぜならイエス・キリストは、十字架に死んだ後、手と脇腹の傷を負ったまま復活されたからです。彼は、すべての苦難に勝利されたその力をもって、どんな深い傷も理解できるだけでなく、その傷をご自分の傷として受けとめて、傷を負って痛み苦しんでいる一人ひとりと一緒に歩んでくださるお方です。このお方によって新しい交わりへと導かれるのです。

 しかし、先ほどの司会者の祈りにもありましたように、今なお世界は完全ではありません。なお罪と悪と不条理が渦巻いている世界であります。しかしそういう世界に対して、終わりの日に完成されることを約束されています。私たちに求められているのは、そのことを信じ、そのことを待つことです。今もイエス・キリストが聖霊として教会を建て、働いておられ、戦っておられることを信じて、終わりの日を待つことが私たちに求められていることであります。だからこそ聖書は、エデンの園を台無しにした人類の物語から始まり、苦難の中にある神の子たちに忍耐することを繰り返し勧め、先ほどお読みした最後の言葉、<然り、わたしはすぐに来る。>という主イエスの言葉と、<主イエスよ、来てください>という願い求める希望の言葉で終わっています。この希望の中にある私たちは今、御子イエス・キリストの誕生を祝うことが許されていることを感謝したいと思います。

聖書のお話