2020年1月12日  聖書:コヘレト12:7~8、ルカ19:1~10 「空の空なるかな」川本良明牧師

 17世紀の仏の聡明な学者であるパスカルという人の遺稿集である『パンセ』の中に、「人間の苦悩--ヨブとソロモン」とだけ書いた短い一節があります。ヨブもソロモンも旧約聖書に出て来る人物で、ヨブはヨブ記に書かれています。東の国一番の大富豪で、沢山の良い子どもに恵まれ、高潔で、人々から尊敬されていましたが、一夜にして全財産と家族全員を失い、彼自身も重病になり死線をさ迷う身となり、苦難の意味を問い続けた人でした。一方ソロモンは列王記上に書かれています。イスラエルの王で、富と知恵と権力を持ち、健康にも大変恵まれた人で、彼ほど幸福な人はないと思います。

 ところがパスカルは、ソロモンをヨブと並べて苦悩の人であったと言っています。なぜそう言うのか。いったいソロモンは何を苦しんでいたのか。ヨブほどには苦難の人ではないし、ソロモンほど幸福の人はないと一般には思うのですが、いったい何が彼を苦しめたのか。これのヒントは『コヘレトの言葉』ではないかと思って選びました。その1章1節に<エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉>とあり、また12節には<わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。>とあり、明らかにソロモンを指しています。しかし最近はソロモンかどうかの説がありますが、『コヘレトの言葉』全部を読むと、やはり健康と富に恵まれ、知恵に富んだ人しか書けないような内容です。だから真偽は別にして著者をソロモンとして、いったい彼は何を苦しんだのかというと、それが先ほどお読みした12章8節の<なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい>という言葉です。聖書は「空しい」と2回書いてますが、「空」という名詞であり、<空の空、コヘレトは言う。すべては空>と「空」が3回書かれています。じつはこの言葉は全編を通じて38回も繰り返しています。

 「空」は「空っぽ」ということではなく、何をもってしても充たされない、根源的な空しさという意味です。これは無害な言葉のように聞こえますが、じつは「空」はひじょうに強力な力を持っています。その力が私たちを根源的な空しさの中に引きずり込んで、人生をまったく無意味であるとさせ、生きる気力を失わせて自死に向かわせる力を持ったものでもあるし、また逆に徹底的に権力を求めたり、果てしない快楽に身を投じさせる力をもった言葉です。例えば2章4節以下には、<大規模にことを起こし、多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた(4)。…金銀を蓄え国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた(8)。>これは「空の空なるかな」と叫ぶコヘレトが精力的に行なっていった一つなのです。ですから、<かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、わたしは大いなるものとなり、栄えたが、なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた( 9)。>と突き進んでいくのですが、最終的には、<見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない(11)。>と、最後は「空」というのです。精力的に行なうのですが、やはり空しくなる、そういうものが空という言葉の持っている力です。

 昔、ある時、高校3年の男の子が夏休み前にいなくなりました。それは黒崎のパチンコ店でプロに出会って、玉を出す秘訣を覚えたからです。それで彼は黒崎から始まって小倉、門司、下関、大阪に向かい、ついに横浜まで行きました。その時何十万円か持っていました。ところが東京では景品をお金に換えないのです。それで横浜に戻っては東京に行き、すってんてんになって、着払いで帰ってきました。学校の生徒指導で反省文を書いて、高校3年をやり直して、無遅刻・無欠席で卒業しました。彼はいったい何を求めて行ったのだろうかと考えさせられました。黒崎から東京まで独りパチンコ行脚をしながら、何か行き着いたのではないか、「空しい」ということに行き着いたのではないか、もうあんなのは無意味だと。けれども彼はいったい何を求めていったんだろうか。やはり何か充たされないものがあって、充たされるものを求めていったと思うんです。こういう充たされるものを求める人間のあり方、それが先ほどお読みしたザアカイの物語にも言えるのではないかと思うのです。

 ザアカイは、エリコで徴税人で金持ちであったと聖書に書かれています。当時の社会では、徴税人は人々から大変蔑まれていた人でした。それにしても彼はその頭ですから大した者ですが、その町にイエスが来られると聞いて、人々は皆、彼を一目見ようと迎え入れました。ザアカイもイエスを見ようとして出て行ったのですが、あいにく背が低かったので人垣に遮られて彼を見ることはできません。そこで先回りして、木に登ってイエスを見ようとしたというのです。彼の行動は異常ですが、その中にやはり彼は何とかしてイエスに会おうと思ったのではないかを思うのです。何か切実なものがあった。「見ようとした」というのは、何とも言えない願い求めが彼の中にはあって、それで大勢の人にさえぎられて見ることができないもんだから、木に登ってでもイエスを何とか見ようということではなかったかと思うのです。

 そういうザアカイをイエスが見上げて、そして、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と言うのです。本当にザアカイは喜んだ。彼が急いで降りて、イエスを喜んで自分の家に迎え入れるということは、単に時の人、有名なイエスを自分の家に招き入れることが出来たという喜びではないと思います。そうではなくて、自分のような所にイエスがわざわざお客となったということに彼はもの凄く喜んだと思うのです。先ほど言いましたように、当時の徴税人は人々から大変蔑まれていました。ですからイエスがザアカイの家に客となるということは、それを自分自身も背負うという意味だと思うのです。事実ここに書いています。<これを見た人たちは皆つぶやいた>と。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」とあります。「何や、あの人もそういう人の1人だったのか」というつぶやきが出たのです。

 しかしそのことを誰よりも身をもって知っていたのはザアカイではないかと思うのです。イエスが自分の家に客となるということが、イエスがどれほど大きなものを失うことになるのか、また不名誉なことであるか、ザアカイが十分に知っていました。ですから彼は、イエスが家に客となってくださったことに対して、<主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します>、つまり、これまで奪う人生であった自分、その「奪うこと」から「与える」という生き方に変えられた、そこにザアカイの、空しいこれまでの人生から、本当に生き生きとした、充たされた人生に変えられていったということが分かるのです。

 イエスはそのザアカイを見て、「今日、救いがこの家を訪れた。この人のアブラハムの子なのだから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのだ」と言われました。アブラハムという人は神から愛された人です。だから「この人もアブラハムの子なのだから」というのは、この人も神から愛されている人なのだという意味です。「人の子」とはイエスのことです。「失われた者」とは神の愛、神の恵みを豊かに用意されているのに、それを無視して、それにあずかろうとしないで自分中心に生きていることで、そういう人をイエスは捜し出して、救うために来たのだと言っているのです。ですからザアカイがものすごく喜んで告白したことに対してイエスご自身が本当に喜んでおられるということが分かるのです。

 コヘレトもザアカイも、それ以前とそれ以後とは根本から変わっています。つまりコヘレトは、空なることをとことん経験し尽くし、「いっさいは空である」ということを悟ったと言いながらも、それほどまでにとことん空しさの中にありながらも破滅することなく滅びの中に陥ることがなかったのは、神の手の中にあったからではないかと思います。ですからコヘレトは、最後の12章になって、先ほどお読みした<塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。>と言っています。これは死のことを言っています。死こそ空しさの極み、空の極みです。その死に行き着いたけれども、死もまた神の手の中にあると語っているわけです。だから彼は、このことを語るすでにその前に、12章の1節で、<青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。>と告白しているのは、空の極めつけである死もまた神の手の中にあるということを知って告白をしているのです。だから『コヘレトの言葉』の一番最後の13節で、<すべてに耳を傾けて得た結論は何か。それは「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべてである。>と言っているわけです。ですからコヘレトは、神によって、それまでの空しいものを求め続けた彼が、本当に充たされたところへと行き着いたことが分かるのですが、これはザアカイがイエスによってとことん変えられたことと同じことではないかと思います。

 さきほど「空」という言葉は、具体的に強力な力をもって人間を破滅へと向かわせるものであると言いましたが、それに対抗できる力はイエス・キリスト以外にないと思います。私たちはイエス・キリストの名を口にしますが、このイエス・キリストこそ権威の中の権威、人間を生かす本当の力、充たされた人生あるいは充たされた生活を、私たちの具体的な生活の中にもたらす力を持ったお方であるということを受け入れるかどうかが、本当に大切なことであると思います。イエスをキリストと信じるとかイエスを信じて歩むとは、具体的にイエスの権威、力を信じて、「主よ、どうぞ私を造り変えてください。どうか空しいものから充たされた生活へと生きる人間に造り変えてください」と願うことだと思います。

 「教会には子どもたちが来ない、人が来ないのは、物が豊かになったから、塾に行ったり、いろいろ充たされているから」と言われていますが、本当にそうでしょうか。人間は苦しいときに神に頼むのか。コヘレトを見るとどうもそうではない。豊かだろうと苦しかろうと、根本的に人間の苦悩なのです。「苦しいときに神に依り頼むのだ、信仰が起こるのだ、今は世の中が豊かだから教会離れをしている、神なんか信じないのだ」とかを言う場合、そういう神を信じているのであり、そういう神だからそうなるのです。本当の神はそうではない。豊かであろうとヨブのように苦難の中にあろうと、神が私たちを根本から愛しておられることを受け入れるとき、つまりイエス・キリストに本当に出会うとき、私たちは神を求める者となるということではないかと思います。

 それでは具体的にどうしたらよいのか。何度も言いますが、イエス・キリストは、復活して、今も、ここで、具体的には聖霊として生きておられます。だからまず聖霊を求めることです。それは私が信仰に入る前に最初に言われたことです。初めて教会に行ったとき、牧師が横に座って、「じゃ、祈りましょう」と言って、牧師が一生懸命に祈った後、私が祈るのを待っていました。私は初めて教会に行ったのですから祈るなど出来ないでしょ。じーっとしていると、パッと目を開けて、「あ、君は祈れないんだね。」と言うと、「君、独りになって、自分の部屋で聖霊を求めなさい。何でもいいから神に向かって、聖霊をください、と祈りなさい」と言われました。だから一番大事な聖霊を求めることを忘れないのです。

 しかし今はそれ以上に、クリスマスから十字架の死と復活に至るイエス・キリストの生涯において、神がすべての人の救いのためにものすごいことをしてくださったことが、自分のことになることが、聖霊の具体的な働きであることを知ることだと思っています。神がしてくださったすばらしいことを、自分の問題として受け入れたり、私の意志、私の感情、私の知性などのすべてをもって応えることは、自分の力ではできません。それが聖霊の働きなのです。聖霊が私を造り変えて、私の感情や意思や知性などのすべてをもって、神の救いのわざを受け入れ、自分のものとし、ああそうなんだと答える者とされるのです。聖霊の働きにあずからなければ、どんなに努力しても、イエスがこんなすばらしいことをしたと言っても馬の耳に念仏、絵に描いた餅となるのです。だから聖霊をひたすら求めましょうというのです。

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