2020年1月26日 聖書:マタイによる福音書22章34~40節 隣人を愛する 豊田護兄

 先月、神奈川で起きた障害者施設の殺人事件の裁判が始まりました。事件の犯人の主張は、「障害の重い障害者は役に立たないから殺さなければいけない」でした。この事件の犯人に接見し、話しを聴いてきたホームレス支援をしている奥田牧師によると、色々と話し最後に「当時あなた自身は、役に立つ人間だったかと問うと」「あまり役に立つ人間とは言えなかった」とのべ、では殺されるべきかと問うと、絶句し自分の死刑に直面したと伝えていました。昨年の水害の時ホームレスの人が避難所にやってくるのを拒否したという事件が在りました。「地域の人ではないから」という理由だそうです。何か似ているきがします。

 今回の事件は、個人の心を病んだ人の起こした事件としてかたづけてはならない事件です。現在「評価」とか「結果」とか「成果」とか目に見える結果ばかりが重視される社会です。「役に立たない者はいらない」という発想を生み出す原因は社会自身が作り出してきたものです。

 大学病院で「重症のほとんど反応のない子どもに、本を読んで聴かせて意味が在るのか」と真顔で質問する若いドクター達をみて俄然としました。根底には事件の彼と似た発想が流れています。人にとって一番大切な事は、役に立つか労働力になるかという事ではありません。もしそうなら、障害者だけではなく老人もか弱い子ども達も総べて役に立たないから必要無いという所にいきつきます。聖書でいう所の「隣人」は、隣の人では在りません、当時差別されていた障害者や女性や違う人種や宗教の人達をさしているのです。人は存在そのものに意味があります。まして「役に立つ」など論外です。

 この事件の成り行きを現在社会の大きな課題として、教会に集うクリスチャンとしてしっかり見守りたいものです。今問題になっているコロナウィルスの問題が、新たな差別にならないようにも気をつけることも心にとどめなければなりません。

 

 

聖書のお話