2020年2月9日 聖書:マルコによる福音書 14章32~36節 ヨブ記3章1~10節「義人の苦しみ」川本良明牧師

2020年2月9日 マルコ14:32~36、ヨブ3:1~10 「義人の苦しみ」宮田教会

 仏の学者パスカルが残した「人間の苦悩--ヨブとソロモン」という短い言葉に、ソロモンも苦悩を抱えていたと気づかされます。富と権力と健康と知恵に恵まれていた彼の苦しみとは空であります。空とは、真空の穴のように、何もかも呑み込んで生きる気力を失わせたり、反対に果てしない権力欲や快楽を求めさせて破滅に追いやる具体的現実の恐るべき力です。富と権力と健康と知恵に恵まれたソロモンが、何をもってしても充たされないで、<空の空、いっさいは空である>と言って苦しんでいたのであれば、ヨブの苦しみは何だろうかと思います。彼の苦しみが、もしもソロモンが持っていたものを持っていないということであれば、彼がそれを手に入れれば、またソロモンと同じように、<空の空>と言って苦しむことになります。

 ヨブのことはヨブ記に書かれています。1章と2章は舞台劇のような物語で、3章~37章まで論争がつづき、38章~41章まで神が自然の創造の不思議と生き物の不思議をヨブに語り、42章で幕がおりるという構成になっています。まず1章でヨブのことが紹介されています。彼は東の国一番の富豪で、<無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた>とあるように、人間として申し分ない人でした。そして10人の子どもたちと幸せに過ごしていました。
 ところが13節を見ると、突然不幸が襲ってきました。略奪や自然災害のために彼は一夜にして全財産を失います。また子どもたちが自然の災害で皆死んでしまいます。このとき、<ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」>(20~21)と聖書は語っています。
 次に2章ですが、7節からこれまでに不幸に加えて彼自身が病にかかって苦しみ悶えます。しかもその中で妻からも傷つけられます。しかし彼は、<「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言った>(10)と聖書は語っています。

 1章と2章を見る限り、一夜にして全財産と家族全員を失い、彼自身も重病になり死線をさ迷う身となりながらも、無垢で、神を畏れ、悪を避けて生きる人間であることから微塵もぶれていません。ところが3章になると、<わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。…>と語り、11節でも<なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。>と語っています。たしかにヨブは、ものすごく苦しんでいます。ですから彼は何に苦しんでいるのかと思うのです。

 そこでもう一度、1章と2章を見てみると、天上の出来事が描かれています。神と御使とサタンが出てくる場面ですが、1章は6~12節、2章は1~7節までです。そこでは神がヨブを絶大に信頼しており、ヨブはその神に絶大に信頼する人間として登場しています。1章では8節で神が言ってます。<「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」>。また2章では3節で、<「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。…彼はどこまでも無垢だ。」>そのように語る神に対してヨブは、<主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。>と告白し、また、<神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこう>と告白しています。ヨブ記の著者も、<このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。>(1:22)、<このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。>(2:10)と書いています。

 まるで舞台劇のような物語です。しかし劇の場面は、天上の出来事から地上の出来事に向けてカメラが移動しながら映していますが、地上から天上に向かってはいないことが分かります。これは、地上のヨブは天上にいる神に問いかけたり、訴えたりしていないし、またできないということです。事実ヨブは、友人たちと延々と激しく論争していますが、そういうときでも、「なぜ神は、無垢な私にこのような苦しみを与えるのか」とひと言も語ってはいないのです。これもまた神とヨブの間に絶大な信頼関係があることを物語っています。このことは、徹底的にヨブを否定するサタンとヨブを全面的に肯定する神のやり取りにおいても描かれています。1章では6~12節、2章は1~7節までです。

 1章では、サタンは言います。<ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです>。このようにサタンはヨブを否定しています。そこで神は言います。<それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな>。また2章では、サタンは言います。<「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです>。そこで神は言います。<それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな>)。
 もちろんこれは天上の出来事であって、ヨブはそのことを全く知らないし、知ることもできません。ところが、このようにサタンが徹底的に否定する地上のヨブは、利益もないのに神を敬い、信頼し、打算でも義務でもなく、強制されてでもなく、神を畏れています。だからヨブと神の関係は、ヨブにとっては、ただ神が神であるから神を信頼し、また神にとっては、ただヨブがヨブであるからヨブを信頼しているということが分かります。

 不幸が襲ったとき、突然、これまで祝福と恵みを与えてくださる神ではなくて、怒りと呪いを与える神に変わり、今まで友であり助け手であった神が、敵となり迫害者となった、この自分に対する神の態度の悲痛な変化に直面してもなお、神は神であり、自分が愛するより先に自分を選んでくださって、自分を愛しておられる神であると信頼できるのかどうか、このことが問われているということです。
 この苦しみがヨブの苦しみだったのではないかと思います。友人たちとの論争は、じつはこのことをめぐって展開されていると言えます。彼らは、ヨブが不幸に陥ったのはヨブに何かそうされる理由があるからだと思って、そのことを彼に何度も語るのですが、しかしヨブは、神が豹変したことに面食らって、戸惑い、苦しみ、叫ぶのです。私は、このヨブの姿を見て、ヨブ以上に神を信頼して生き抜かれたイエス・キリストを思わずにはおれないのです。

 イエス・キリストは、小さな田舎のナザレ村で、貧しい生活を30年間を過ごされました。その間、彼は幼いときからずっと、神を「アッバ父よ、天のお父さん」と親しく呼びかけ、逆に神の方も「わが愛する子よ」と親しく語りかける間柄でありました。やがて彼は公の活動を始めましたが、すべて天のお父さんの恵みの力によって、神の国が来たことを力強く語り、おどろくべき奇跡を行ないますが、すべて父なる神の力によるものだと彼は微塵も疑っていません。人々の病を癒やし、嵐の海を鎮め、5つのパンと2匹の魚の奇跡を起こし、盲人の目を開け、選ばれた弟子たちと寝食を共にする交わり、権威ある教え、死者の復活など、まさに慈愛に満ちた父なる神を実感していたと思います。

 ところがゲツセマネにおいて事態は一変しました。彼は神が豹変したと感じたからです。それが先ほどお読みしたマルコ福音書14章のゲツセマネの物語です。彼は苦しみもだえています。弟子たちは動転したと思います。今までのイエスとは打って変わって、<イエスはひどく恐れてもだえ始めて、「わたしは死ぬばかりに悲しい。一緒にいて、目を覚ましていてくれ。」>と願うのです。そして、彼らから少し離れて、<地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように>と祈るのです。この異様な姿は、神が異様な姿になり、敵のような姿になって彼に出会っていることを彼が実感したことを示しています。

 しかも神は、彼の訴えにひと言も答えない。この神の沈黙は、やがてそこで捕まえられて、連行され、祭司たちに訊問されて、ローマ総督ピラトに引き渡されて、十字架にかけられていくのですが、それまでずっと続いています。それは神の自由であります。神には何も語る義務はありません。神はまったく自由です。そして神は、そのような姿においても、御子の父であることをやめることはありません。それは御子においても同じであります。彼もまた、天のお父さんの子どもであることをやめることはありません。父が父であるからこそ父に信頼し、これが父の意志であることを受け入れ、従っていきました。だから彼は、<「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」>と祈って、彼自ら立って、捕まっていき、十字架の道を歩んでいくことになります。ですから父なる神の方も父なる神で、子が子であるからこそ全くイエスに信頼して、イエスが父の意志を受け入れて、十字架の道を歩むことを神は信じていました。

 ヨブ記にもどりますが、ヨブの友人たちは、ヨブと激しく論争しながらも、ヨブを権力に引き渡したり、彼を処刑させるようなことはしませんでした。そしてヨブも友人たちもイスラエルの民ではなく異邦人でした。しかし、ヨブ以上に無垢であり、正しく、罪のない人であったイエス・キリストを、イスラエルの人々は十字架にかけて殺しました。だからヨブの場合、友人たちから殺されるまでには至らなかったと考えることができます。だからこそヨブ記は、イエス・キリストを指し示すものだと言えます。

 苦しみには2つあります。1つは、罪を犯して、その罪に対する裁きとしての苦しみです。いま1つは、神の信実な僕としての苦しみです。神の信実な僕としての苦しみとは、神の真実に真実をもって応えるために受ける苦しみです。それが義人としての苦しみであって、神の誉れのために生きる主の証人としての苦しみです。<義のために迫害される人々は、幸いである>(マタイ5:10)とイエスは語っています。義人としての苦しみ、神の誉れのために苦しむ主の証人としての苦しみ、ヨブはそのような義人でした。しかしイエス・キリストは、神の御子であり、まことの人間であります。まことの神であり、まことの人間であるイエス・キリスト、彼だからこそ私たちの罪に対する裁きとしての苦しみを受けることがお出来になったのです。それはヨブにはできません。ヨブはやはり罪人の1人です。だからヨブは処刑されなかったのです。けれどもイエスは神の子、神ご自身であり、罪のないお方です。だからヨブにはできないことをイエス・キリストはできたということが言えます。けれどもヨブは、イエス・キリストを指し示すという、まさに主の証人としての誉れを受ける喜びにあずかったのです。そのことをヨブ記の最後の物語が語っています。そこには失った財産の倍を受け、子どもたちをもうけ、あらためてすばらしい祝福を受けたと書いていますが、それはヨブが主の証人としての誉れを受ける喜びにあずかったのだということを、ヨブ記の著者も語っているのではないかと思います。

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