2020年3月1日 聖書:エフェソの信徒への手紙4章25節~32節 ヤコブの手紙1章19~21節「怒りとはやっかいなもの」世良田静江牧師

エフェソ書はキリスト者として新しい社会的諸関係に学び生きることが書かれている。地に足を着けた振る舞い、真理への愛、日々の仕事における目的の真っ直ぐに生きる大切さ、欺瞞や怒りや陰口やおしゃべりとは無縁な者になりなさい。これは今日の私達と変わらない現状でしょう。長々と堕落したおしゃべりは今でもスマホやメール、携帯電話からのお話とでも言うのでしょうか。特にここでは怒ることがあっても罪を犯してはならない、日が暮れるまで怒ったままではいけません。一日の時間を示している。エフェソ書ほど現代を生きる私達に適切な示唆をするものはないでしょう。著者はパウロとされるもののパウロに傾倒する者、エフェソ書は信仰告白や祈り、サクラメントを大切に礼拝の中で語られるものが書かれている。ホルトは本当に良い人間とは、自分自身の意見を傲慢にくどくどと甲高くわめき散らすよりは、神のことばに耳を傾ける人であろうと言っている。私達は2つの耳を持ち、口は1つしかない。それは私達がより多くを聞き、より少なく語るためである。怒ることなく語ることは少なく、聞くことを多くが大切である。正義に燃えて、純粋に怒る人がいなければこの世は成り立たないのだろうか。余りにも怒ることが真実で正しい怒りではなく、短気で自己中心的な苛立ちの弁解になってしまう。説教者の怒りが講壇から飛び出たら嫌悪感や軽蔑感を聴衆の心に刻み込み、人々の魂を回心させる力はない。怒りや常に短気や口やかまし小言は十字架の主を忘れている姿である。今、レント。主は全てを負われ十字架に架けられました。十字架の主はどうだったのでしょうか。怒りとはやっかいなものです。アンガーマネジメントという講座があります。たった6秒間我慢すること。その6秒間、主の十字架のお苦しみを思えば、私共の日々の些細なことに腹を立てることなどありません。マザー・テレサでさえ、司教宛に書いた手紙に自分の怒りを闇と記していますが、余裕がないと私達は人を責める。魂が病むと心も体も萎える。主と私の関係、汝と我の関係がしっかりとしていなければ他者へのことはほどほどで良いのです。

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