2020年3月15日 聖書:ルカによる福音書10章25~37節 「聖化の恵みに生きる」川本良明牧師

 先月の2月11日」に大分で天皇制のことを話したとき、一人の方から、「天皇制のことは分かったが、キリスト者だけで固まるのではなく、天皇制に無関心な一般の人と隣り人としてつながりながら伝えていくにはどうしたらよいか」との質問がありました。私は、「まず隣り人がいるのではなくて、聖霊として今も苦難の姿で生きておられるイエスにつながっていくときに、本当の隣り人と出会うことになると思います」と答えはしたのですが、あらためて隣り人とかキリスト者として生きることについて考えさせられ、今日の聖書の個所を選びました。
 イエス・キリストこそ唯一の救い主であると告白して生きる私たちは、「キリスト者とはこうあるべきだ」という掟や義務に縛られて窮屈に生活しているのではなく、むしろ祟りや汚れや罪の裁きなどの縛りから解放されて、全く自由に生きる者にされています。しかしその自由は、勝手放題、好き放題、自由奔放を意味するのではなく、きわめてきびしい掟を基にしています。それは、神を愛し、また隣人を愛するという掟です。神に仕え、隣人に仕えることと言い換えることもできます。それは私たちを、神に造られた本来の人間へと立ち返らせ、全く自由にする掟です。このことを今日の聖書から学びたいと思います。

 ある律法学者がイエスに、永遠の命について尋ねました。「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読むか」と言われると、彼はみごとに、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えました。「正しい答えだ。それを実行しなさい。」とイエスが言うと、律法学者が、「では、私の隣人とは、だれのことですか」と訊き返したので、イエスはサマリア人の譬え話を語り、「あなたは、祭司とレビ人とサマリヤ人の三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問いました。そこで彼が、「その人を助けた人です」と答えるとイエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。これがこの物語のあらすじです。

 永遠の生命を尋ねてきた律法学者に、逆にイエスが問い返している律法とは、イスラエルの民が神から授かった十戒のことです。10の掟ですが、これが2つの掟に集約されていました。1つは「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記 6:5)、もう1つは「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ19:18)です。つまり「神への愛」と「隣人への愛」という愛を基にして、2つの掟に集約されていました。
 これについてイエスは、ひじょうに大切なことを語っています。「律法の中で最も重要な掟は何ですか。」と尋ねられたときです。イエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの2つの掟にもとづいている。」と言われました。つまりこの2つの掟は、どちらも同じ重さをもった掟であって、同じ厳格さをもって守らなければならない神の掟であると言われているのです。

 ところがこの律法学者は、2つの掟を分けないで、すらすらと一気に述べています。いったい彼は、この掟をどれだけ真剣に考えていたのだろうかと思うのですが、それは私たちも同じことが言えるのではないでしょうか。というのは、神への愛と隣人への愛を、同じ重さで、同じ厳格さで、真剣に実行することが、正直言ってできているのでしょうか、いや、できるのでしょうか。私たちは、神への愛を優先して隣人への愛を後回しにするか、あるいは隣人への愛を優先して神への愛を後回しにするか、どっちかではないかと思います。
 誤解を招くのを承知で単純に言いますと、礼拝で讃美し、祈り、教会生活には熱心ですが、人に対する愛が欠けていることがあります。また逆に、礼拝や教会生活は無意味である、言葉よりも行ないの方が大事だといって社会活動に専念することが起こります。教会の中では、自分の救いに熱心に、また教会員同士の人間的な愛には満足しているが、国家や政治や天皇制など社会の問題には関心がない、逆に外では、教会を見て、変わった連中が日曜日に集まっては何かをやってる、あんなことよりもこっちの方が大事だ、という風に分かれてしまっている。このように2つの掟を同じ重さで守ることができないのが私たちの正直な姿ではないかと思うのです。

 もう一度聖書にもどりますと、律法学者はすらすらと答えましたが、イエスから「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と言われると、「では、わたしの隣人とはだれですか」と訊き返しました。なぜ訊き返したのでしょうか。それはイエスの言葉に動揺したからだと思います。ルカ福音書を書いたルカも、「彼は自分を正当化しようとして」と書いています。イエスから鋭く見抜かれて動揺するのをごまかそうとして、「隣人とは誰ですか」と訊いたと思います。しかし、イエスは、そういう彼を一言も非難していません。ただ譬え話を語りました。それで私たちも、もう一度読んでみたいと思います。

 「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われました。追いはぎは、彼の服をはぎ取り、半殺しにしました。横たわっている彼を、通りかかった祭司は気づきながら見て見ぬふりをして通り過ぎ、やがてレビ人が来たけれども同じように通り過ぎた。ところがサマリア人が、旅の途中であったけどもその人を見て憐れに思い、傷の手当てをし、宿屋まで運び、介抱を頼み、金を払い、翌朝、用事のために行くけども費用の超過分は帰りに払いましょうと主人に言いました。」本当に単純な分かり易い話です。そして話した後、イエスは、「あなたは、この三人の中で、だれが襲われた人の隣人になったと思うか。」と言われました。すると律法学者は、「その人を助けた人です。」と答えてますが、この表現は弱すぎます。原文では、彼は非常に強い口調で、「憐れみをかけてやった人です! サマリア人です!」と答えています。

 イエスが語ったこの物語は、一般に、「『このサマリヤ人は、あなたのように、隣人とは誰かと問うたりしないで、倒れた人を見たら、ためらうことなく、助けています。あなたもサマリヤ人のようにしなさい』とイエスは言われている」と読まれてきました。もしそうであれば、イエスはそのつぎに、「あなたもあの祭司やレビ人と同じだ」とか「あなたもサマリヤ人から憐れみを受けるべきだ」と言った思います。ところが予想に反してイエスは、「行って、同じように実行しなさい」と言われました。この言葉は、律法学者がすらすらと律法を答えた後に言われた、「それを実行しなさい」と同じ言葉ですが、今言われたこの言葉は、本当に注意深く、正しく聞き取ることが大切だと私は思うのです。

 この譬えの中でイエスは、サマリア人が「その人を見て憐れに思った」と語っています。この「憐れに思う」という言葉は、はらわたが震えるほどに強い情愛をあらわすスプランクニゾマイという言葉で、福音書に12回出てきます。その中の3回は、イエスの譬え話(放蕩息子の父親・大きな借金を返せない家来を許す王・善きサマリヤ人)で、残りはイエスご自身がそういうお方であったとして用いています。そうした流れで考えると、イエスがこの譬え話で言おうとした中心的なことは、道徳の勧めではなくて、「祭司とレビ人とサマリヤ人の三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったのか。」ということであって、それに対して、「憐れみをかけてやった人です!」と答えた律法学者に、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われています。
 ですからこの言葉は、最初に語った言葉の単なる繰り返しではなくて、「あなたは私に従って来なさい。そうすればあなたは、神を愛し、隣人を愛する者となりますよ。」という招きの言葉であると思います。この招きの言葉に彼が応えてイエスに従っていったのか、それともあの祭司やレビ人と同じような生活を続けていったのか分かりません。
 考えてみると、祭司もレビ人もそして律法学者も神を愛することには自信をもっていました。しかしその自信とは何だろうかと思います。イエスは繰り返し、旧約聖書の言葉を引用して、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」と言われています。譬え話でも祭司やレビ人はけが人を見ても通り過ぎています。それは彼らが神に仕えるのに忙しいからです。現実の祭司やレビ人そして律法学者たちは、神を愛することに熱心でした。けれどもその熱心は、イエスからきびしく問われる熱心であって、本当の神への愛とは言えないのではないかと思います。

 そこで考えさせられるのは、なぜ神を愛することに熱心な人が隣人を愛せないのかということです。それは神をほんとうに愛していないからだと思います。じゃどうしたら神を愛せるのでしょうか。それは、自分はほんとうに神から愛されているのだということを知る以外にはないと思います。律法学者はそのことに気づいていませんでした。だから彼は隣人についてイエスに問うたのです。もしも彼が、自分は神を愛することができない人間なのだと心から思っていたとすれば、イエスから、「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と言われたとき、「主よ、神とは誰ですか」と問うたと思います。そうするとイエスは彼に別の譬え話を語ったと思います。……私の推測ですが、「放蕩息子の譬え話」だと私は思います。

 放蕩の限りを尽くして追いつめられた息子が、お父さんのことを思い出して、「やはりお父さんの所に帰ろう。けれどもそのとき、『お父さん、私はもうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。それでも召使いの一人として雇ってください。お父さんの所に居りたいのです』と言おう。」と思って彼は帰るのです。ところがお父さんは首を長くして待っていました。はるか向こうに息子の姿が見えますと、走り寄って彼の首を抱き、「ほんとうによう帰って来たなぁ。お前は私の息子だ。」本当に美しい譬え話ですが、この中でも、「父親は息子を見つけて、憐れに思い」と、あのスプランクニゾマイという言葉を使っています。

 律法学者も含めてイスラエルの人たちは、神への愛と隣人への愛を同じ重さをもって守ることができないことに苦しんでいました。しかし苦しみながらも神にはお出来になる、神が必ず来られて自分たちを造り変えてくださる、そのことを信じて、その日が来ることを待ち望んでいました。そして神はその希望に応えて、イエス・キリストにおいて実現されました。このお方は、憐れみ深い神の子と憐れみ深い人の子でありました。憐れみ深い神の子と憐れみ深い人の子が1つであったイエス・キリストは、神がどんなに憐れみ深い神であるかを示されました。そしてまた同時にこのお方は、本来の人間はどんなに憐れみ深い存在であるか、けれどもそれが台無しになってしまって苦しんでいることをも示されました。

 ですから最後にあらためてこの譬え話を考えますと、イエスがこの中で一番言おうとされたのは、「この三人の中で、だれが強盗に襲われた人の隣人になったか。」ということを越えて、「私に従って来るならば、憐れみ深いサマリア人のように慈悲深い人間になります。」ということではないかと思います。神への愛に欠け、また隣人への愛の中で神を賛美することもできない私たちを、自由に、心から神を愛し、隣人を愛する、神に仕え、隣人に仕える本来の人間になるようにとイエスは招いておられます。これは神学的には、「聖化」という言葉で表現されます。汚れに対して聖くなることを考えがちですが、そうではなくて、憐れみをもった本来の人間として生きること、それが「聖化される」ことです。自由に神を愛し、隣人を愛する、あるいは神に仕え、隣人に仕える本来の人間に成るという約束をもって、神はイエス・キリストにおいて招いておられることを、ここであらためて感謝をもって覚えたいと思います。

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