2020年4月5日 聖書:ヨハネによる福音書18章28~40節「十字架への道~真理とは何か~」世良田静江牧師

そこでピラトは「それではやはり王なのか」と言うとイエスはお答えになった。「私が王だとはあなたが言っていることです。わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」ピラトは言った。「真理とは何か」。この真理を辞書で引きますと「知性と実在の合致、内部で矛盾せず、適合すると真理が成立すると考える」等々が書かれています。東大の定礎板にも「真理はあなた方に自由を得させる」と記されているとか。ピラトの問いとイエス様が答えることとは全く違っているのです。この中には三つの人間の有様が描かれていいます。1つ目はユダヤ人及びその権威者。2つ目は総督ピラト。3つ目はこの人達と全く違ってイエス様がおられます。今、このユダヤ人達を支配しているものは、法律でありイエス様に対する心の底からの憎しみです。総督ピラトはローマの法律の番人で忠実に法に従おうとする有能な官僚です。彼に何の罪も見い出せないピラトは激高しているユダヤ人を恐れ、何回も尋ねつつ、イエス様の十字架を決めます。二千年経て、現在にも通ずる御身大事の官僚の姿。人は憎しみに捕らえられ、あるいは自己可愛さに捕らえられる時、真理など眼中にありません。イザヤ書53篇に記されているように見るべき姿なく威厳も慕うべき姿も無い。人に侮られ捨てられ誰も彼を尊びません。弟子たちすら逃げ去ったのです。主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にいる人びとを助けることが出来るのです。(ヘブル書2章8節)或る牧師先生の証に信仰を求め苦しんだ時、イエスか親鸞かと悩んだ時、讃美歌が口から血潮したたる主のみ顔。肉体を持ち、苦しみを負う。神が血を流されるお姿、これこそ真理の真理と思い決心したとのこと。今、受難週。この後に復活があるのです。

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