2020年4月12日 聖書:創世記2章1~3節 ヨハネによる福音書20章24~29節 「人間イエスの復活」川本良明牧師

先月行なわれた北九州地区総会は、わずか15分で終わり、5月の教区総会は開かないことになりました。新型コロナウィルスの感染が急速に広がっていて、その予防のために各教会はさまざまな手立てを講じています。非常に危険なのは、今度のウィルスの特徴が、症状のないのに伝染した後、それが分かることです。このような状況であればこそ私たちは神のみ言葉に耳を傾け、自分に課せられている為すべきことを誠実に行ない、希望と喜びを得たいと思います。

 今お読みいただいたのは、信仰の父として尊敬されているアブラハムとサラの物語の一部です。彼らは最初はアブラムとサライという名前でした。二人は神から、住み慣れた国から出て神が示される地に行きなさい、と言われて、その言葉に従いました。その彼らに神は祝福を約束されました。当時の祝福とは、まず第一に子どもが沢山生まれることでした。神はアブラムに、<あなたの子孫は大地の砂粒のように、星の数のように多くなる>と言われました。しかし10年待っても子どもが与えられません。それで雇っていたエジプトの女ハガルによって子どもを産ませることにしました。ところがハガルに子どもが生まれると3人の間に亀裂が入り、ひどい状況が起こってきます。ときにアブラムは86才でした。そのことが16章に書かれていますが、その後のことを聖書は何も書いてません。その間、どういうことが起こっていたのか分かりませんが、自分たちの思惑で神の祝福を得ようとした結果、たいへん不幸な現実を招いていたと思います。

 ところが17章ですが、13年ぶりに再び神が現れます。アブラムが99才のときです。神はまず2人に名前を変えさせました。アブラムをアブラハム、サライをサラと、神ご自身が名前を与えたのです。その名前は神によるまったく新しい門出を意味するものであって、その裏付けとして、来年の今ごろサラから子どもが生まれることを告げたのでした。ときにサラの年令は89才です。それを聞いて2人は笑いました。正直な反応です。彼らは狂信家でもなければ楽天家でもなく、きわめて現実的な判断をする人たちであって、神の言葉は空しいばかりであったと思います。思えば彼らは、神から祝福として子どもが与えられると言われたけれども、あまり期待をしていなかった感じがするのです。だからハガルの体を借りて自分たちの子孫を増やし、自分たちの手で歴史を作ろうとしたのです。自分の力で歴史を切り開くというのは、私たちのあるがままの現実ではないかと思います。しかし神は、このような私たちの現実の中に介入したのです。

 約束の言葉どおりサラはみごもって男の子を産みました。おどろくべき神の奇跡が起こったわけです。死んだも同然の現実を、<無から有を生み出す神>御自身が生き返らせたという出来事が起こったのであります。つまり死んだも同然の人間の歴史の中に神ご自身が切り込んできて、生きた歴史に変えていく神の歴史が始まったのです。その子をイサクと神御自身が名づけたのも、そのことが揺るぎないことであることを示しています。この神の歴史の目標は、全人類の救いにあります。イサクからイスラエル民族が興り、神ご自身がその子孫の一人として世界に来られて、その御子によって救いを完成させることが起こりました。それはアブラハムから二千年後のことですが、それがイエス・キリストの誕生とその生涯でありました。

 今日はイエスの復活を祝う日ですが、コロナウィルスのことで縮こまってしまいました。しかしウィルスの関係だけでなく、元々イースターはクリスマスほど重んじられていないのではないでしょうか。それはアブラハムとサラが懐疑的に笑ったように、十字架に死んだ人間が生き返るなどあり得ないという前提があるからだと思います。そう思うのは当然です。しかしこの現実の中に神は切り込んで来たのです。そして御子イエスの十字架の死こそ私たちの現実であることを示されました。今の私たちの現実は、まさにイエス・キリストが十字架に死ぬまでのその生涯の姿ではないかと思います。そういう現実に対して神はあり得ないことを起こしたのです。それがイエスの甦えりです。死んだも同然の私たちのこの現実が、この世界が、この歴史が、新しく甦えったということであります。

 しかしなお私たちは疑いの中にあり、これを受け入れることができない、古い、死んだも同然の現実に留まっているのではないか思うのですが、どうでしょうか。ですからその一端を、ヨハネによる福音書の最後に出てきますトマスの物語から考えたいと思ったわけです。

 イエスが復活して弟子たちに現われたとき、その場にいなかった弟子の一人のトマスは、<あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、…わたしは決して信じない。>と言いました。その8日後、ふたたび現われたイエスがトマスに、<わたしの手を見なさい。また、あなたの手をわたしのわき腹に入れなさい。>と言い、<わたしの主、わたしの神よ>と答えるトマスに、<わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。>と言いました。
 このイエスの最後の言葉に注目して、科学的に証明できなければ信じないトマスの不信仰をイエスはいさめていると、長い間教会は伝統的に解釈してきました。しかしこれはトマスの不信仰を取り上げているのではありません。トマスは近代人ではありません。古代人です。イエスは、トマスが<手に釘の跡を見、指を釘の跡に入れてみなければ信じない>と語っていることを積極的に評価しているのです。それはどういうことかと言いますと、自分は亡霊ではない、からだであるということを示されたのです。だからイエスは、魚を食べ、みんなと食事をしました。つまりイエスは、自分は幽霊のようなものではなくて、身体を持った、あなたがたと同じ肉体と精神を持った者なのだということを示されたのです。トマスはそのことを一生懸命主張したのです。だからトマスの声を積極的に評価して、その後、イエスは<自分を直接見ないでも信じる人は幸いだ>と勧めたのです。

 少し分かりにくいと思いますので、Ⅰペトロ1:8をお読みしたいと思います。後に年取ったペテロが語っているのですが、<あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。>つまり<見なくても信じる人は幸いだ>というのは、使徒たちの証言を信じて、イエスを見ていないけれどもその言葉を信じている人は幸いだと言っているのです。イエスは人間として復活したのであって、幽霊ではない。だから、<わたしを見なさい。わたしだ>と言われて、食事を共にし、手に釘の跡があり、わき腹に槍の跡のあるお方として弟子たちに現われ、この弟子たちの証言を信じる人は幸いであると言われているのです。

 復活したイエスは、永遠の時間の中で、過去も現在もこれからも、苦難の姿で聖霊として生きておられます。このイエスと共に生きるために、私たちは聖書の証言を聞き、聖書の言葉を聞き、見えなくても聖霊によって耳を開いていただき、心を悟らせていただいて、この現実を死から命へと変えてくださる主を信じて、また主を愛し、希望を抱きながら、主の証人として、この厳しい現実の中で共に歩んでいきたいと思います。お祈りいたします。

父なる神さま、今日の御言葉をありがとうございます。どうか、あなたが今の時代においても、私たちと共に苦難の姿として歩んでくださっておられること、そして私たちの現実をあなた御自身が引き受けてくださって、私たちを闇から光へと移し入れてくださって、愛と希望と信仰に生きる者としてくださることを信じます。どうかあなたに呼び集められた者として、あなたの証人として、大胆にあなたのことを指し示し、証ししながら歩んでいくことができる者としてください。この足らざる祈りを御子イエス・キリストの聖名によって御前にお献げ致します。

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