2020年5月17日 聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18~25節「知恵をほろぼす」豊田護兄

 この聖書の箇所には、「知恵(知識)」でもなく「しるし(富)」でもない、この世の価値ではない「宣教」によって伝えると書いてあります。「教える」ではありません、ここが大切な所です。「キリストの十字架」は教えるものではないのです。知識として教えるものではないということです。

 昔大学の講義でとても有名な東大の歴史学の先生が、「小説と歴史は違う、司馬遼太郎を読んでも歴史を学だことにはならない」と強く言われたのをおぼえています。本当にそうでしょうか、歴史的な記録や事実といわれているのは、勝った側に都合がいいものでしかありません。そこには負けた側の心情や人として生きた言葉はありません。知識とはその程度のものでしかありません。それよりも、人が生の言葉で伝えたことや、それをイメージとして伝える小説の方がはるかに意味が在るように思えます。知識としての事実は、あまり意味をもたない気がします。聖書も同じで、知識として教えるものではないでしょうし、人が書いたものですから、その時代の流れに合わせて書いてある部分もあるでしょう。特にビラトについては、相当に事実と違うきがします。彼はローマからしても酷い人間で、あまりに人を殺しすぎると言うことで、ローマに連れ戻されて処刑されたと聞いたことがあります。

 知識とはそれほど大切なものでしょうか。保元の乱の時、負けた側の藤原の頼長は、当時最も知識のある教養人でした、乱が勃発したときに、源の為義と為朝は、夜討ちを提案しますが古事をひいてそれをしりぞけます。戦争という現実を理解せず知識で片付けようとしている空きに、夜討ちをかけられ敗れてしまいます。所詮知識とは現実のまえには意味をもちません。

 知識や世間の富や価値に惑わされてはいけません。キリストの十字架の宣教とは、そういうことではないでしょうか。自分が信じるものを知識ではなく、感じて大切にすることではないでしょうか。
 明日世界が滅びても、私は今日リンゴの木を植える
この気持が大切だと思います。

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