2020年5月31日 聖書:コヘレトの言葉7章1節、コヘレトの言葉9章10節「しっかり生きる」鶴尾計介兄

護さんの話は「死ぬことと生きること」に関しての話だったように思います。僕自身「死ぬことと生きること」に関して考えてみたいと思います。もうこの年まで生きますと、色んな人を見送ってきました。ぼくの父は大腸がんで亡くなったのですが、最後の一週間は意識もなく見動きも出来ず、こちらが話かけても何の反応もないという状態でした。母と父の悪口を言ったんです。そうすると父の目から涙が一筋流れました。母は小さな声で「聞こえてるよ。」と言って父の手を握って「お父さん、ごめんね、ごめんね」と言っていた光景を良く覚えています。
十年くらい前に中学の時の仲の良かった友だちがやはり大腸がんで亡くなったのですが、千葉にいましたが、同窓生と会いに行く計画を立てました。手間取って1か月近くたってようやく行けるようになりました。集まって明日お見舞いに伺いたいと奥さんに連絡しましたが、来てもらっても反応が全くありません、せっかくですが対応できませんからご遠慮ください。という返事でした。次の日一人で「貝島炭鉱の思い出」という池田さんという宮田の出身の方の写真集を届けようと思って病室に行き、看護師さんに病室の外まで奥さんを呼んで頂きました。「鶴尾です。」と言うと「鶴尾さんですか?」と奥さんが言われました。15歳で卒業して随分と経っているのですが、ぼくの話が何回か出ていたそうなんですね。どうぞ会ってやってください、と言われました。会ってみると、父と同じ状態で話しかけても反応がありません。奥さんの話ではもうがんがあちこちに転移していて、本人も死を覚悟していて治療をしないという選択をされたそうです。僕は彼の手を握って、正月にはお互いの家を行き来したよね、お家でお母さんが餅を焼いてくれたね、卒業した小学校に夏休み3人で行ってセイタカアワダチソウの茎でチャンバラごっこをしたよね、と話しかけましたが全く反応がありません。そして最後に、僕もこの世の旅が終わった時、天国に行って会うことになると思うから、その時はまた友だちになってなと言った時です。あーともおーとも言えないうめき声を出しました。奥さんをふっと見上げると大粒の涙が落ちました。そういうことを経験して死というのは、全てをなくして天国に行くんだなという思いを強くしました。では生まれた時はどうでしょう。目も見えず言葉もしゃべれず、考えることもできない、意思を表すこともできない。もしそういう状態で一生が終わるなら誕生というのは何もありがたくないですね。しかし誕生、生まれた日が喜ばしいのは無限の可能性を与えられて生まれてきた、ということですね。これから身体が大きくなり歩けるようになり、見えるようになり、考えるようになり、話せるようになり友だちを作れるようになる。無限とも思える可能性、それが神様から与えられてこの世に生まれてきた、だから嬉しい、喜ばしい、のです。しかし今日のコヘレトの言葉です。7章1節「死ぬ日は生まれる日に勝る。」死ぬ日は生まれる日より素晴らしいのだと言っています。今日の招きの言葉「心の貧しい人は幸いである」もそうですが、聖書は真逆のことを言っているように思える箇所があります。コヘレトはダビデ王の子で何不自由なく育っています。欲しいと思ったものは全て手に入るのです。ところが空しいと言っています。コヘレトの言葉全体を空しさが貫いています。そこでコヘレトは4章2節、「既に死んだ人を幸いだと言おう。更に生きていかなくてはならない人よりは幸いだ」と言っているのです。「その両者よりも幸福なのは生まれてこなかった者だ」とまで言っています。本当に心の中は虚しさでいっぱいで、生まれてこなかった方がよいとまで言いきっています。コヘレトが生きていたのはイエスがお生まれになる約千年前だと言われています。つまりまだイエスを知らないコヘレトの言葉なのです。「死ぬ日は生まれる日に勝る。」はまさにこの言葉通りのコヘレトの気持ちなのだと思います。12節「短く空しい人生の日々を陰のように過ごす人間にとって幸福とは何かを誰が知ろう。人間その一生の後はどうなるかを教えてくれるものは太陽のもとにはいない」イエスがまだお生まれになる千年も前ですから、やはり当時はそういう感覚だったのでしょう。しかしイエスの誕生を知りイエスの生涯の意味、我々の罪の贖いのために無垢であるイエスが死んでくださった、そのことによって我々が義とされ、死んだあと、神とともに永遠に生きる希望が与えられている、それを知っている我々は「死ぬ日は生まれる日に勝る。」というのは別の読み方ができるのではないだろうかと思います。いろんな可能性をもって生まれてきて、話すこと見ること歩くこと友だちをつくること愛することなど様々なことを神様から与えられました。そして死ぬ時はそれら一つずつが失われていく、いわば神様から与えらたものですから神様にお返しするのです。神は与え神は取るのです。ぼくの母も年を取った時に腰が痛くなって歩けなくなり目もかすんで、一つずつ失っていきました。しかし一つ失ったとき神の国に一歩近づくのではないでしょうか。そして生まれた後神様からいただいたものを全て神様にお返しした時に神は天に招いてくださる。そう思います。だからわれわれにとって死ぬ日は生まれる日に勝るわけです。生まれる日は無限の可能性が与えられると言っても200歳も300歳も生きるわけではありません。しかし死ぬ日には神の国で神とともに永遠に生きる、そういう希望が与えられます。そして今から行く神の国には知恵も知識も企てもない。知恵のある人もない人も同じように神の国では生きることができる、そういう希望がわれわれに与えられている、そういう風に思います。そう考えると死ぬ日は生まれる日に勝るというこの言葉は、まさに実質をもって味わうことができるのではないかと思います。
ぼくの無二の親友、服部清志さんは、去年の4月に亡くなられたのですが、1月に入院された時は肝臓全体がひどい肝硬変になっていて、胸じゅうに静脈瘤がいくつもあって、それを全て治療するのは不可能と言われたそうです。特に大きい何個かは手術で破れないようにはしたけれど、これ以上は無理だと言われて、清志さんも一時期死を覚悟していました。ぼくが病室に行った時に、天国で父と塩川さんと水野さんに会えると楽しそうに話していました。そして別の日はベッドで寝ていて、天井のあの付近に親父が現れ、親父と話したと、それをいかにも楽しそうにうれしそうに話すのです。奥さんの由起子さんに尋ねても嬉しそうに話すとおっしゃっていました。ところが僕が不思議に疑問に思っているのが、亡くなる日、奥さんの由起子さんはその日遠くで仕事があってくたくたの状態で4時ころ病室に入ったそうです。すると「疲れているだろうからすぐ帰りなさい」と清志さんが言われたそうです。そして「帰りにステーキを買って焼いて食え」と言われたらしいんですね。さすがに疲れてその日は買わずに帰ったそうですが、いつもは7時まで病室にいるのにその日に限って4時に帰ってしまった、それがとても悔やまれると言っていました。疲れていたし、まさかその日に亡くなるなんて誰も思ってなく、退院の可能性も出てきていたので、由起子さんは言われるまま帰ったそうです。ただ飯塚病院の玄関を出た時、何か気になってもう一度病室に戻って「今日は帰るね、さよなら」と一言挨拶して帰ったそうです。服部信和さんは7時ころ来て、特に変わったこともなくその日は帰られました。ところが夜11頃血を吐いて、つまり静脈瘤が破裂して亡くなられたのですが、どうも即死ではないようなのです。清志さんはそれをティッシュで拭って、それを枕の下かシーツの下かに隠したらしいのです。それだけ余裕があったのです。それだけ余裕があってどうしてナースコールを押さなかったのかな、というのがずっと今でも疑問です。分かりません。なぜナースコールを押さなかったのだろうか。その余裕がなかったわけではないのです。一度は死を覚悟し、天国に行くことを本当に楽しそうに話されていた清志さんです。僕の個人的な見解ですが、血を吐いて拭った時に、「もうこれは神様にお任せしよう」と考えられたのではないかなと思うのです。「助かるも良し、召されるも良し、神様に全てゆだねよう」そう考えたとしか僕には思えないのです。ナースコールを時間の余裕があるのに押していないので、そう思えてならないのです。 
これはドイツの画家のフリードリヒという人が描いた「朝日の中の婦人」という題の絵です。朝のさわやかな感じを描いた絵かなとも思うのですが、不思議なことにここに「死は恐れるものではなく、光あふれる天空での新しい生の始まりなのだ」と書いてあります。最初僕はこれは朝日をあびながら、今日一日何があっても身をゆだねようという、そういう一日の覚悟をもって朝日を迎えている絵だと思いました。今日という日がどんな日になろうともそれを受け入れていこうと、両手を広げて朝日を全身にあびている女性からそういうイメージが読み取れました。この絵に出会ったのが1月頃です。それから5月に樋口さんから、水野さんが亡くなられたと聞いて、もう一度この絵を取り出しました。この女性は水野さんだったのだと思いました。そしてこの朝日は神の国からの光なのではないだろうか、神の国から来る光を全身で受け入れて、御心でしたら神様の御もとにお迎えください、そういう風に言っている絵なのでは、と思いました。僕もこの世の旅の終わりに、こういう風に神の国から差してくる光を浴びながら神様に迎え入れられる、そのようなことをイメージしています。それから清志さん、このようなことも仰っていたんですね。「鶴尾くんがいつか、天国に来ることになったら僕が迎えに行っちゃるきね。」「ああ楽しそうですね」と思わず言ってしまいました。ぼくらの死ぬ日、それは無になる日ではなくて天空での命が与えられる、そういう日であるならば死ぬ日は生まれる日に勝る、正にその通りだと思います。僕は26歳の時に人生迷いました。それまで塾をやっていたのですが、塾だけでは到底家族を養っていくことはできない。就職するか、でも塾が好きだ。それで迷っていた時に服部団次郎先生が「賜物」という話をされました。人にはそれぞれ神様から賜物が与えられている。その賜物を生かして一生を過ごせればいい人生になるのではないか、というような話でした。こんな自分にも賜物があるのだろうかと考えた時に、子どもが好き、という気持ちがそれなのではと思いました。不思議なことに高校生の頃は、日曜日はぼくの家は近くの小学生のたまり場になっていて、大勢遊びに来ていました。めいめい遊んでいて4時ころになったら「宿題せないかんき帰るね」と言って帰るのです。「じゃあ宿題もっておいでよ、ここで宿題すればいいよ」と言ってそこで宿題を見始めました。そういうことがあったので、賜物を生かすということはやっぱり塾を続けることだと思いました。その頃目に留まったのがこのコヘレトの言葉のもう一か所。9章10節「何によらず手を付けたことは熱心にするがよい。」です。昔の口語訳では「すべてその手のなし得ることは心をこめてなせ」そんな訳だったと思います。僕はその言葉がとても心に残って、塾をやるからには心をこめてやろう、何かをやるには心を込めてやろう、そう思いました。そしてそれはしっかり生きるということだと思います。護さんは良く死ぬために良く生きると言われました。良く生きる、しっかり生きるということだと思います。そう考えてみると、ここにいるみなさんしっかり生きてらっしゃるんですよね。みなさんここで話を担当されたり、英子さんは花をいつも用意されて、しっかり御自分の仕事をされています。増永さんは毎週日曜日、やっかいな会計の仕事をし、月に一回会計報告をしホームページを担当してくれ、ぼくのホームページまで担当してくれているのです。ぼくの知りうるのはほんの氷山の一角で、ぼくの知らないところで何倍も何百倍もしっかりみなさん生きてらっしゃる、と思います。何事もその手のなし得ることは心を込めてなせ、この言葉を心に留めながら、ぼくが天に召される時、そのとき清志さんが迎えに来てくれるはずですが、天に昇って懐かしい父母、服部先生、清志さん、水野さん、塩川さん、中学時代、高校時代のともだち、そういう人と会って話ができると思いますが、その時に「ぼくもしっかり生きてきましたよ」と、顔を上げてそういう報告ができるように、これからの毎日神様に力を戴きながらしっかり歩いていきたい、そういうふうに思います。

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