2020年6月7日 聖書:コリントの信徒への手紙②4章16~18節「永遠に存続するもの」豊田護兄

 永遠に存続するものは在るのでしょうか。地球規模で考えると、人類の世界など無いも同じです。地球の誕生から今日までを一日にすると、最後の一秒でしかありません。結論から言えば無いと言うのが本当でしょう。縄文時代ですら3万年ぐらい続いています。狩猟生活が中心で、貧富の差はなく大変でしたがキリスト教など必要もないし存在すらしませんでした。農耕という文化が生まれ、社会が生まれ貧富の差や階級などが生まれ、人は豊かになりましたが不幸になり、宗教が生まれました。その不幸な人の世に限定してみて「永遠に存続するもの」について考えてみましょう。

 人は生きてそして死にます。その中で何を残せるのでしょうか。それは、その人の思いでしかありません。物や財産などはさほど意味はないきがします。もしその思いが誰かに伝われば、その人の人生には意味が在ったと言えるのでしょう。知識や技術などの形ある物は教え伝える事が出来ますが、その後ろにある一番大切な「思い」はなかなか伝わりません。それは理解したり知る物ではなく「感じ取る」ものだからです。

 CDがあります。これを聴くとその曲を知ることはできますが、生の演奏が伝える力とはほど遠いものがあります。そこには人に伝わるエネルギーが在ります。でもこれもそれを感じ取れる人にしか分かりません。高いチケット代を払って聴きに来ている人達すべてが分かり感じる物ではありません。寝ているひともいますし、あまり感じていない人も沢山います。総べての物についてそのことは言えます。知っていると言うことと、感じて分かるというのは全く別の事です。

 46年前、当時のレニングラード交響楽団が来日したときに、その楽団のトロンボーン奏者のシルビンスキー先生にレッスンをしてもらいました。何にも言わずに誰もいない会場に、たった一つの素晴らしい響きのある音を聴かせてくれました。そこには世界があり素晴らしい音楽がありました。圧倒的な素晴らしい音、鍛え抜かれた永遠の響きが在りました。お陰で今日まで音楽がつづけられています。涙が出るほど感動したのを今でもはっきりと覚えています。でもその時にそれを感じ取る力がなかったら、何も伝わらず意味をなさなかつたでしょう。だからいつも心を鍛えていなければなりません。見抜く力、聴き抜く力をいつも鍛えておかなければならないと思います。

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