2020年6月21日 聖書:マルコ福音書2章15~17節 「罪人を招くために」岡田博文兄

 主イエスは徴税人レビを弟子として召され、彼の家で、仲間の徴税人や罪人たちと一緒に食事をしていました。すると、これを見たパリサイ人たちが次のように非難しました。
「どうして彼(イエス)は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(16節)
これに対して、主イエスは次のように反論されました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)
本日の聖書から、3つの真理を学びます。
まず、第1番目の真理は「丈夫な人には医者はいらない、必要ない」ということです。
主イエスの言葉は、手術の鋭いメスのように、私たちが普段自覚しない、心の奥底にある深い病巣に迫るのです。
ここで、「丈夫な人」とは、力を持っている人という意味です。他人の力を借りなくても、自分の力で生きていける人のことです。
主イエスを非難したパリサイ人たちは、自分の努力で律法を守り、神のみ心にかなう人間として生きて行けるとうぬぼれて、律法を持たない異邦人や、律法を守ることのできない罪人を、軽蔑していました。
主イエスはこのように、神の助けなしにでも人間の力で生きることができると自負している人のことを、「丈夫な人」と皮肉っておられるのです。
 私たち自身もまた、自分の知恵や力によって生きていけるとうぬぼれている、「丈夫な人」ではないでしょうか。神なき世界では人間の力だけが頼りです。
このような丈夫な人の社会では、隣人はもはや愛する対象ではなく、自分が生きるために、蹴落とさなければならない競争相手、ライバルとなります。
 神を見失った今日の世の中で、自分は「丈夫な人」であると妄想して生きている私たちこそ、最も根深い文明の病いに、知らず知らずのうちに侵されている病人であることを認めなければなりません。
宗教の根本問題は、神は存在するかどうかではなく、人間は果たして、神なしに生きることができるのかということです。
 第2番目の真理は、「医者を必要とするのは病人である」(17節)ということです。
病人と呼ばれているのは、主イエスと一緒に食事をしている、徴税人や罪人のことです。
 徴税人は、当時、ユダヤを支配していたローマ政府のために、同胞のユダヤ人から重税を取り立て、その上、税金の上前をはねて私腹を肥やしていた、世の中の嫌われ者でした。
 罪人とは律法を知らず、守らない人々のことです。律法によって民衆を指導していたパリサイ人たちは、彼らを社会の病人とみなし、あたかも伝染病を恐れるように、彼らと一緒に食事をしたり、交際することさえ、拒んでいました。
 彼らは社会の落ちこぼれとして、一人前の人間と認められず、誰からも相手にされないで、劣等感と孤独感に苛まれながら生きていました。人間が人間を差別し、阻害する、のけ者にすることこそ、最も深い社会の病気です。「丈夫な人」として生きている私たちも、この病に侵されてはいないでしょうか。
 大切なことは、私たちもまた決して「丈夫な人」ではなく、自分の力では律法を守ることができず、神の恵みによって支えられなければ、一日も生きることのできない病人であることを認めることです。
私たちの中に、「丈夫な人」はひとりもいません。ただ自分は丈夫だと思っている病人がいるだけです。聖書には、次のように書かれています。
「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)
「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており・・・」(ローマ3:23)

 第3番目の真理は、「わたしが来たのは、・・・・を招くためである」(17節) 
主イエスが来られた目的は、私たち「を招く」ためである、ということです。
医師は病院に、病人だけを招きます。健康な人を招いていたのでは、仕事になりません。
お金になりません。
 主イエスは、私たちの魂の世話をする、まことの医師として、罪という死に至る病から私たちを解放し、本当に健康な人間として生かすために、私たちの世界に来られたのです。
 私たちは聖書を学ぶことによって、み言葉の光に照らされて、自分の魂が罪という深刻な病気に侵されていることを示され、病人が医師の助けを求める切実な思いで、魂のまことの医師である主イエス・キリストのもとにやって来るのです。
 「あなたがたは主にお会いすることができるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」
(口語訳、イザヤ書55章6~7節)

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