2020年6月28日 聖書:ヨハネによる福音書1章14~18節「神を見たものはいない」豊田護兄

 神を見た人はいません。神は見えないのです、だからいないかと言うとそうではありません。感じることは出来ますし、しばしば日常の色々な場面でその存在を感じることは、誰にもしばしばあります。

 見えないものとはどんなものでしょうか、例えば「風」、これは見えませんが、具体的な形にそれが表れた時、その存在を知ります。「音」も同じです、具体的な音として聴こえた時にその存在を知ります。では「言葉」はどうでしょう。これは分かりやすい様で意外に難しいのです。

 「言葉」によるコミュニケーションとは、その言葉(手話などの身振りも含め)によって表されたものに対する共通のイメージによって成り立ちます。「りんご」などの単純なものは共通性が高いのですが、リンゴを紅いと思う人と青いと思う人がいます。また甘いと思う人酸っぱいと思う人、その人の育った地域や歴史に寄ってイメージが微妙に異なりながらコミュニケーションが行われる場合がしばしばあります。「音楽」という言葉はどうでしょう。幼い頃からずっと練習を重ね今も研鑽を重ねている人と、クラブ活動で少し音楽をかじった人とでは、「音楽」という言葉の持つ意味はやイメージは全く異なります。それでも「音楽」の話しをしています。

 では「神」という言葉はどうでしょう。これはもっと違うでしょう。私が「神」という言葉で感じているものと、90才を過ぎた母が感じている「神」では全く違ったものがあります。単に年齢だけではなく、その人が過ごしてきた生き方や歴史が違うように、神の存在を感じた場面そのものがおなじではありません。すべてはその人の生き方が、その感じ方を左右するのでしょう。

 「見えない」ということの難しさがここにあります。あなたが感じる「神」と私が感じる「神」は違うのでしょう。またそれで良いのかもしれません。だからこそ、真剣に、日常の毎日を大切にして生きていかなければならないのでしょう。なければ、「神」を感じその存在を真に確認する事は出来ないでしょう。そこに「見えない」という意味が隠されているのではないでしょうか。

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