2020年7月5日 聖書:ローマ信徒への手紙7章24~25節「神に感謝しつつ歩む」世良田静江牧師

コロナのニュースが少し落ち着きましたが、ダイヤモンドプリンセス号から始まり、3月4月5月6月と4ヶ月間殆どの行政が対応にあたり、卒業式も中止、入学式は勿論延期、学校も休校と、今までにないウイルスによる災禍で活動が停止。この事は日本だけではなく世界中の人々を苦しめて未だに増加している国々もあります。アビガンやマスクをアベガンにアベノマスクと揶揄する言葉も生まれ、政治は劣化し、癒着や隠蔽が当たり前になり、何か恐ろしい思いがします。唯、あらゆる属している審議会をはじめ、定例の会がなくなり、時間が出来たので読書三昧という贅沢な日々を過ごすことが出来ました。
本日の箇所はパウロ自身、みずからの中にある罪の力に悩み、すべての悩みが人間を孤独にし、パウロが「わたしは」と悩みの中で叫ばれるのです。このたった二節の中から、神は感謝すべきかなと。十字架はキリスト教のシンボルです。キリスト教の奥義がこの中に秘められているといっても言い過ぎではありません。イエス様は十字架上で言葉では表現出来ない程の苦しみを受け「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んだと記されています。この叫びにイエス様に向かって立っていたローマ帝国の百卒長が「まことにこの人は神の子であった」と告白しています。ルカによる福音書では「義人」であったと。あの叫びにもかかわらず百卒長も兵士も神の子であったと認めているのです。私たちは自分が罪人であることを知っていても告白しないで恰好をつけるのです。神の御子であるイエス様ですら、絶望の叫びをあげるなら人間である私たちが叫び求め祈り求めてよいのです。十字架の主は叫べ叫べと言われるのです。傲慢で不信仰な私たちを主はご存知です。パウロは叫びそして神は感謝すべきかなというクライマックスに至るのです。律法は善ではあるが、律法によって駄目になる自分がいます。罪なる存在であっても主と共に歩む信仰によって義人とされる深い神の愛があるのです。

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