2020年7月12日 聖書:フィリピ3章10~14節 「目標めざして走る」川本良明牧師

 いかがお過ごしでしたか。司会者の言葉にもありましたように、たいへんなときですが、ぼくは4月のイースターの後、先週まで日本基督教会の小倉教会の礼拝に出席していました。礼拝後にベトナムからの留学生たち3人と聖書を学ぶ機会が与えられ、本当に恵まれた2ヶ月でした。また宮田教会のHPの「聖書のお話し」をいつも読ませていただいていました。どんな状況にあっても永遠に変わらない神様の言葉をしっかりと聴いて、いま司会者が祈られたように、神様の恵みを知り、それを実行して、毎日の生活の中で習慣となり、御言葉が豊かな実を結ぶことを願っています。今日の聖書の個所は、何度もお読みになって力づけられてきたと思いますが、「目標を目指してひたすら走っています。」と語るパウロの言葉から教えられたいと思います。

 彼は名をサウロといい、ベニヤミン族出身でした。ベニヤミン族はユダヤ民族の中でも少数部族であり、それだけに彼は人一倍パリサイ人として頑張ったのではないかと思います。そういう彼が、自分と同じギリシア語を話すユダヤ人でクリスチャンだったステパノという人が殉教する場面に立ち会いました。使徒言行録7章にくわしく載っていますが、議会に連行されたステパノは、堂々と信仰を告白し、聖霊に満たされて、<ああ、人の子が神の右に立っておられる。>と語り、ひざまずいて、怒り狂った人々が投げつける石に打たれながら、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と叫びながら殉教していきました。その姿にサウロはものすごい衝撃を受けたと思うのです。彼はこれまでの自分の人生に疑問を抱き、大きく動揺しました。その彼に復活のイエスが現れて、<サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。>呼びかけたとき、彼は、これまでの生き方が180度変わって、キリストの使徒パウロとして生きる者となりました。人生の目標をはっきりと与えられたのです。

 クリスチャンの生きる目標とは何でしょうか。そのことを、もう一度、先ほどお読みしたパウロの言葉から教えられたいと思います。<わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、…何とかして死者の中からの復活に達したいのです。…何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。…後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、…目標を目指してひたすら走ることです。>どれも大切な言葉ですが、皆さんならどの言葉を取り上げるでしょうか?
 パウロは、<死者の中からの復活に達すること>がクリスチャンの生きる目標であると語っています。そして、その目標を達成するのに4つのポイントをあげています。1つ目は、キリストの復活の力を知ること、2つ目は、キリストの苦しみにあずかること、3つ目は、後ろのものを忘れ、前に向かっていくこと、4つ目は、キリスト・イエスに捕らえられていることに信頼することです。
◎まず「キリストの復活の力を知る」ということですが、
 「死は絶対であり、終わりである」というのが私たちの現実です。しかしこの現実をキリストは打ち破りました。神は人間イエスとして誕生し、私たちと同じ人生を生きられ、そして死にました。しかし神は、十字架に死んだイエスを復活させました。つまり神は、死は終わりではない、新しい始まりであることをこの世に向かって宣言されたのです。生前イエスは、ラザロを復活させるとき、ラザロの姉マルタに、<わたしは甦えりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる>と言われました。そしてイエスは、<たとえ死んでも生きる>という言葉どおり、十字架に死んで甦えって、永遠に生きていることを示されました。ですからこのキリストの復活の力を知ることが、クリスチャンとして生きる目標を達成する1つです。
 このことを考えますと、すでに私たちも「たとえ死んでも生きる」ことを経験しているのではないでしょうか。水野源三さんの詩を読んだり聞いたりしているのですが、彼は9才のとき赤痢で高熱に冒され、耳と目以外はダメになりました。つまり彼はそのとき死んだのです。その彼が人生の本物に出会って、多くの人を慰めたり励ます詩を作りました。例えば復活のことを綴っています。「頼りない自分に失望するときも 一人ではない 一人ではない 死んで甦られたイエス・キリストが 励ましてくださる このお方を讃えよ。」
 耳と目以外はまったく機能不全となった彼にとって、イエスの復活がどれほど歓喜あふれる希望を与えたであろうかと思います。というのは、イエスの復活は単なる魂の復活ではなくて、「からだの復活」だからです。つまりイエスは十字架において魂も肉体も完全に死んで消滅し、無となりました。神はその無からイエスを、魂も肉体も完全な霊のからだとして復活させました。ですから私たちが終わりの日に復活するというのは「からだの復活」なのです。ローマ帝国内でキリストの福音が奴隷たちの間に広がったのは、「からだの復活」が希望を与えたからだと思います。
◎つぎに「キリストの苦しみにあずかる」ということですが、
 皆さん、覚えていますでしょうか? パウロがコリントの教会にひじょうにきびしい手紙を送ったことです。教会の人たちはキリストの復活を知っていました。それなのに教会の中には党派争いや不品行などいろんな問題が渦巻いていました。その原因は死者の復活を信じる信仰に欠けていることにあるとパウロは見ました。ですから彼は、キリストの苦しみに与るように、つまり、単なる復活ではなくて「死者の復活」に与るように勧めたのです。十字架のない復活信仰はカーニバルです。
 キリストは、自分のために身代わりとなって、根源的な罪から救い出すために十字架で死んで下さいました。十字架の死による贖いの復活を知ることが大切です。ある人からこんな話を聞いたことがあります。がんの宣告を受けた人がひじょうに動転し、うろたえて、平安を得たい一心で、ある有名な人のところに行ったそうです。するとその人は何と言ったか。「死ねば治ります!」彼は一瞬固くなっていましたが、ハッと気がつくと立ち上がり、「そうなんだ」と言って感謝したのでした。まさに「生きることは死ぬこと、死ぬことは生きること」これこそクリスチャンの生きる極意です。自分もそうなりたいなと思っています。先の水野源三さんも、「もしもわたしが苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった もしも主なるイエス様が苦しまなかったら 神様の愛はあらわれなかった」と綴っています。
◎つぎに「後ろのものを忘れ、前のものに全身を傾ける」ことですが、
 私自身、過去のことを思い出して、悔やんだり苦しんだりすることが一杯あります。これに対してパウロは、<キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさを知って、前進しなさい>と語っています。「キリスト・イエスを知ることのすばらしさ」を知るためにはどうしたらいいのでしょうか。それには3つのことがあります。
1つ目は、自分に気づくことです。自分の無力、愚かさ、小ささに気づくことです。
2つ目は、悔い改めることです。ちょうどサウロが復活のイエスに出会って180度変わり、使徒パウロとして立ち上がったように方向転換することです。たとえて言えば、後ろから光が照っていると私の前には影があります。私はいつも自分の影を見、マイナスのことばかり見ているのです。私には前にある罪と悪にまみれた肉のわざしか見えない。だから後ろのキリストの愛の光の方に振り向くことが大事です。
 私が信仰に入る前、<神は愛である>と言われ、その言葉はそのときの自分の思いとピタッと重なりました。それで私は自分の部屋で一人祈っていました。「神さま、聖霊を下さい。どうか助けてください。」すると、突然、上の方から、「私はあなたを愛する。そのままでいい、あなたは私のものだ。だからふり返りなさい。」ということを経験しました。それから信仰生活に入っていき、洗礼を受けました。「後ろを忘れ、前に向かう」ために、弱さに気づき、悔い改めることをあげました。
3つ目は、感謝することです。過去に招いた罪や悪、泥まみれの全部をイエスさまが引き受けてくださって、十字架に死んで滅ぼして下さった。そして復活して、聖霊としていつも私と共におられるイエスさまを仰ぎ見て、「主よ、私はこういう人間です。憐れんで下さい、助けてください。」私たちはいつも後に引きずり込まれ、戻りやすいのですが、そのたびに、「どうぞ私を憐れんでください、あなたは私のすべて贖って下さって、私の泥まみれの過去を全部帳消しにして下さっていることを信じて感謝します。ですから私を立ち上がらせて下さることを感謝します。」と祈っていると、絶対に、確実に、前に向かって歩むことができるということであります。
◎最後に「キリスト・イエスに捕えられていることに信頼する」ことですが、
 「自分の弱さに気づく」とか「向きを変える」とか「前に向かって感謝しながら進む」と言いましたが、これは決して「自分で努力してがんばれ」と神さまが言っていることではありません。断じてそうではありません。それはパウロ自身が語っていることです。Ⅰコリント10章13節で新約聖書の312ページです。
 お手元の聖書をご覧になっていただきたいと思うのですが、<あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。>
 皆さんもこれまでこの言葉に何度も励まされてきたのではないかと思います。フィリピの手紙でも今日お読みした聖書の個所の2節後でも、<いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。>(3:16節)と語っています。
 つまり、手の届かない高いところに手を伸ばして、自分の力や経験などをもとにして進むのではなくて、すでにキリスト・イエスがとらえて下さっているのだ、だからイエス・キリストが目標まで連れて行ってくださる、だからイエスさまに信頼しなさいと言っているのです。「信頼する」とは「願います」とか「そうかも知れませんね」ではなくて、すでに叶えてくださっていると信じて、絶えず感謝しながら祈り求めていくということであります。

 ところで大切なことは、<死者の中からの復活に達する>ということは、死後の確かな約束ですが、死後のことではなく、だからこそ、今、ここで、すでに復活に生きることが約束されているということです。私たちは悪と罪が支配している現実の中で生きているのですが、しかしその中でキリストの香りのする人間に変えられることが約束されています。しかもそのように変えられる約束が確実であることを旧約聖書の詩編の詩人たちも語っています。詩篇119編は繰り返し繰り返し「掟」を語っています。掟とは神が命じられた律法のことです。「律法はイエス・キリストがこられてもう廃棄された」ととんでもないことを言う学者がいますが、そうではなくて、イエス・キリストによって律法が成し遂げられたのです。
 罪の贖いだけでなく、罪を贖ったキリストは、私たちの罪を贖うと同時に私たちを罪赦された罪人として新しく神の律法に生きる者として下さる、それが聖書が語る「福音の中にある掟」なのです。私たちはイエス・キリストを信じることによって、単に自分の罪が贖われ赦されているだけでなくて、新たにクリスチャンとしてイエス・キリストの似姿に変えられていき、具体的に神の掟に生きる者とされるということです。ですから、今、ここで、生きて働いておられるイエス・キリストの霊である聖霊に願い求めれば、そのことが私たち一人ひとりの中に実現するのであります。

 キリスト者としての目標に生きることを述べましたが、目標に生きる例として昔の船乗りを思います。レーダーも何もない彼らは、夜が来るのを待って、暗い夜に見える星を目印にして自分の今の位置を知り、目標に向かっていきました。
 もう一つの例としてノアの箱舟を思います。ノアは神さまから命じられて箱舟を造りました。雨も降らないのに山の麓で巨大な船を造る彼を見て人々は狂人と見て嘲りました。しかし彼はこの世から離れて造ったのではありません。造船に必要なものを手に入れるためには、材木屋を始め数多くの人と関わりを持たねばなりません。しかも彼だけが大洪水がくることを神さまから知らされていました。だから彼は、船を造る目的を人々から聞かれるたびに、悔い改めて一緒に船を造って助かりましょうと呼びかけました。しかし誰一人相手にしません。いよいよ雨が降り始めても人々はただの雨降りだと思っていました。ノアはいよいよ大洪水がくることを知って、ますます訴えました。彼がどんなに切実に訴えたか、聖書を読むと分かります。生き物が皆、箱舟に入るとその入口の戸が閉まるのですが、それはノアが閉めたのではありません。<主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。>(創世記7:16)と記されています。それはともかく箱舟には舵がありません。帆も動力もありません。ただ洪水の上を漂うしかありません。しかしノアは、箱舟を造るように命じたのは神様だから、すべてを神に信頼して漂いました。このノアの箱舟を教会にたとえることがあります。
 教会はどうなのでしょうか。教会は神の右におられるかしらであるイエス・キリストが、地上において、そのからだである教会を建てておられる、だから大丈夫だと信じているのでしょうか。コロナは心配で、不安です。もちろん「信仰によって守られているから大丈夫だ。」といって不謹慎であってはいけないし、今なすべきことを精一杯することは大切です。
 しかし私たちの国籍は天にあるのであり、たとえ死んでも生きるという希望を与えられているのですから、そのことを世の人たちに示すために、教会に招かれ、選ばれ、教会に集められているのです。それも、死後のことはもちろんですが、今、ここで、その希望に生きることが約束されているし、証しすることが求められています。

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