2020年7月26日 聖書:ヨハネによる福音書1章6~14節「言葉について」豊田護兄

 「言葉」とは何でしょうか。ここに書いてある「言葉」とは、魂・心を持った言葉で、「言の葉」と呼ばれるもので「ロゴス」と呼ばれているものです。在る意味心のある真の言葉の事です。
 
 言葉はとても便利ですが、嘘があります。そしてきちんと相手に気持を正しく伝えることがとても難しいものです。感情はうそがつけませんから、言葉よりも正しく伝える事ができます。言葉で「愛している」と伝えるよりキスする方が正しく正直に伝わるものです。残念なことに人の心と言葉は一致しているとは限りません。それを前提にして人は日常言葉を使います。「約束を破る」「嘘をついてしまう」と言うことが日常的に起こってしまうのはこのためです。

 でも人の心には共通の何かが在るので、その言葉での会話の中に心を振るわせる場合があります。「琴線」に触れるという場面がそれです。例えば方言があります。最近読んだ小説が、田川・飯塚の筑豊を舞台としたもので、会話のほとんどが筑豊の言葉でかいてありました。とても心にすとんと落ちるのです。「言葉」とは意味よりもその人の持つ心の響きに問いかけるものなのかもしれません。その響きには、言葉以上の、言葉で言い表せない心が隠れているのかもしれませんし、在る意味「言の葉」や「ロゴス」に近いものが在るのかもしれません。

 「信じる」とは、理解することではありません。それは心のなせるわざです。神は見えませんが、信じる人には在ります。言葉を理解したり意味を考えるのではなく、「琴線」に響く何かが大切なのではないでしょうか。昔詩人の谷川俊太郎と話したときに、詩は、読み手が感じるままのもので、意味は無いのだとおっしゃっていました。だから発するときには、大切にしなければならないという事です。

 いつも「心のある」言葉を使いたいものです。神とともにある「言葉」を。

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