2020年8月9日 聖書: 創世記 28:15~16 「主がいつも共におられることを知る」川本良明牧師

「神が共におられることを知る。」これが今日の中心メッセージです。そして今日の聖書の個所は、創世記28章のヤコブの物語ですが、今の私たちに語りかけている言葉として聞きたいと思います。

 ヤコブは双子の兄弟として生まれました。当時は兄が父の祝福を相続することになっていましたが、弟のヤコブは父と兄をだまして祝福を奪いました。兄の殺意を知った彼は、はるか遠い母の実家に逃げていきます。その途中、荒野で夜を迎えた彼は、孤独の中で……「兄は祝福を軽んじていた。自分はそれを守ろうとしたのであり、悪いのは兄だ。…かといって、あれでよかったんだろうか。父に可愛がられる兄を妬み、見下していたのはたしかだ。父が盲目に近いことや唆かす母を出汁にして、本当は父の祝福が欲しかったのだ。兄や両親のせいにしている自分、ああ何ということをしたんだろう。」……いつの間にか彼は石を枕にして眠ったのでした。ところがそういうことのいっさいを問わないで、神はヤコブに語りました。<見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。>

 <わたしはあなたと共にいる。>これを聞いたヤコブは、<まことに神はわたしと共におられる>とおどろき、感謝しました。<わたしはあなたと共にいる>という神の言葉を聞く私たちも、彼と同じように信じ、感謝して受けとめていると思います。そこで今日は、<あなたと共にいる>と言われる神は、どういう風に共におられるのかを知って、神が共におられる豊かな恵みに与りたいと思います。

 1つ目は、神はあなたの前におられます。出エジプトのとき、神はイスラエルの民の前にいて、海を開き、荒れ野でも先立って行かれ、約束の地に導かれました。<主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた>(出13:21)とあるとおりです。その約束の地で、イエス・キリストは、全人類を救うために、人々の先頭に立ってエルサレムに進んで行かれました。そして今、神は、死者の復活に達する目標に向かって私たちを導いておられます。
 ところが私たちは、いつの間にか自分の方が神の前に立ち、神を見失い、不安になることを繰り返しています。<私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。>(詩16:8)とあり、「相対して」とは「前に置く」ということです。悔い改めて主を前に置くとき、不安から解放されるのです。
 2つ目は、神はあなたの内におられます。<あなたがたの体は、聖霊が内に住んでいる神の神殿であり、自分のものではない>(Ⅰコリント6:19)とパウロは語っています。天地創造の神やイエス・キリストは分かるが、聖霊が分からない、実感できないという人がいます。イエスは、復活して弟子たちと過ごした後、天に昇られるとき、私はあなたたちを孤児にはしない。聖霊を送って永遠に共にいるようにする、と言われました。まもなくペンテコステの日に、風のような、炎のようなものとして聖霊が弟子たち一人ひとりに降りました。
 聖霊が内に住むと、イエスは救い主で罪の贖い主であるという客観的なことが、自分の事柄となり実体としてストンと落ちます。
 そして聖霊は、祈って待つならば、確実にあなたの内に来てくださいます。師のイエスが殺され、怯えて部屋の鍵を全部閉めていた弟子たちでしたが、復活したイエスは入ってこられ、<平安あれ、恐れなくてもいいよ>と言われました。
 3つ目は、神はあなたの下におられます。私たちは神に祈るとき天を見上げます。もちろんそれもいいのですが、仕事や人間関係やお金や健康のことで追いつめられると足下が動揺します。しかし神は、人に必要な何かではなく、全存在を支えるために土台となっています。だからどんなことがあっても揺らぐことがありません。山上の説教で、<雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。>と語られたイエスの言葉は、私たちへの約束の言葉なのです。

 <わたしはあなたと共にいる。>これを聞いたヤコブは、<まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。>と言いました。ヤコブは神が、自分の前に、自分の内に、自分の足下に共におられることを知ったのです。
 そこで最後に、「知る」ということを聖書はどう語っているかを考えます。旧約聖書の最初に、<アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産んだ>とあり、新約聖書の最初にも、<ヨセフは男の子が生まれるまで彼女を知ることはなかった>とあります。聖書が語る「知る」とは単なる知識ではなく、人格的・肉体的・体験的に知ることを意味しています。もちろん理性的に知ることを否定していません。たとえば信仰とは、信頼する、決断する、告白する、知る、という4つを内容としています。この中の「知る」とは、理性をもって理解し認識することです。信仰を語るのに理性が出てくることに違和感をおぼえるかもしれませんが、神は私たちに理性を授けています。ルカ福音書24章で、復活したイエスが<聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開いた>とあります。この「心」とは「心が鈍い、燃える、疑う」という意味の心ではなく、理性的なことを意味する心です。イエスは弟子たちの理性の目を開いて聖書を解き明かしたのです。だから信じる対象を、理性的に知ることはたいへん重要です。しかし聖霊によって実体的に知るときに、説明や知識がたとえ死んでいても復活するのです。

 今の時代で「神が共にある」ことを知ることほど大切なことはありません。歴史を見ると、情報が拡大する節目に疫病が大流行しています。現代は、過去に経験したことのない情報あふれる時代で、危機的状況にあります。しかし教会は、いつも危機の時代を船のように漂ってきたし、イエス・キリストこそ降ろすべき錨であると信じてきました。情報の洪水の中で知識を得ることは必要です。しかし、神が共におられることを知ることこそ最も大切な情報ではないかと思います。
 蔓延する疫病コロナにおびえることは、死の怯えです。しかし死は終わりではない、死は新しい始まりです。イエスは言われています。<あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。>
 ここに平安があります。苦難はあります。しかし、主がいつも私と共にいることを知って、「私にはできないが、神にはおできになる!」、このことを信じて、どこにあっても平安の中に生きていることを、語らずとも、周りの人に証ししていきたいと思います。

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