2020年8月23日 聖書:ルカによる福音書17章20~21節「平和の到来」茶屋明郎牧師

 6日に広島に、9日には長崎に原爆が落とされ、15日に敗戦になって75年の長い年月が過ぎて、戦争の悲惨さや平和の尊さへの意識が薄くなり、取り組みへの思いも弱くなっているところがあります。
 今日までずっと、核のない平和な社会を実現するために大きな声を上げ、熱心に活動してきているところの戦争経験者や被爆者そして沖縄の人たちは、戦前の日本に戻りつつあり、戦争できる国になっていくのではないかという悲痛な叫びをあげています。
 主イエスは、「平和を実現する人たちは幸いである。この人たちは神の子と呼ばれる」と仰って、信仰者も平和への取り組みの課題を担っているし、責任があるし、信仰者であるからこそ担える働きがあると問いかけています。
神の国が実現するところに平和が生まれるし、神の栄光があらわされるところに地に平和が実現するし、神の支配が実現することによって私たち人間の社会において平和が生まれると言われています。
主イエスは、ファリサイ派の人たちから、「神の国はいつ来るのか、ローマの支配にされ、自由もなく、人権の尊厳さも奪われている奴隷の状態から解放される日はいつ実現するのか」と聞かれたとき、神の国はあそこに、ここにと見える形ではなく、見えない形でやってくる。見えるところでは、争いや暴力と戦争が起きている闇の状態であるが、多くのユダヤ人が虐殺されていく中で、奇跡的に生き延びた「戦場のピアニスト」の人のように、また被爆されて、多くの人たち亡くなっていくただ中で、サーロー節子さんのように奇跡的に生かされることが起きていて、まさに暗闇の中に輝く光のようにして、見えない形であるが、人を救う愛と平和な神の支配は実現している。神の国は私が神の指でもって悪霊を追い出している出来事によってあなた方のところに来ていることが明らかになっていると主イエス言われています。
主イエスは、平和と愛の神の国がご自分の働きや言葉によって、つまり差別や病気そして罪などさまざまなことで恐れたり、苦しんだり、絶望している弱い立場に置かれている人たちに寄り添い、赦し、愛し、尊い者として共に生きて、人々を癒し、恐れから解放し、自由にし、慰め、平安を与え、希望をもたらす生き方を通して、十字架と復活の出来事を通して実現していることを示されています。
主イエスは、神の国があなた方の間に来ていると仰っています。すなわち、あなた方も愛と平和の神のよって支配されているから、敵という隔ての壁が取り除かれて、さまざまな違いを超えて、その違いを尊重しあい、一つになり、共に生きる新しい人に造り替えられているから、平和を実現できる人になっているから、だからあなた方の間において、見える形で、共に生きる平和な共同体を造り上げてほしいと問いかけています。
72年前の今日、8月23日に創立された宮田教会の初代牧師、服部団次郎先生はこの問いかけに忠実に応え、みずからも炭鉱労働者として働き、弱い立場に置かれた人々に寄り添って、まさに定礎の土台石にきざんでいる「連帯と尊厳さがあるように」という言葉のごとく、平和の実現という宣教を担われて行っておられます。
 私たちもこの伝統を引き継ぎ、この問いかけに応えて働くためには、まず自分が神の愛に生かされ、新しくされることが必要だし、慰めと励ましそして希望となる、み国が来ますようにという祈りが欠けてはならないことです。

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