2020年9月13日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章13~14節「福音の神髄(1)」川本良明牧師

 これから2回にわたって福音の奥義を見極め、教会が、また私たちが、永遠の時間につながっていることを知って、今の時を生き生きと生きる者となることを願っています。1回目はガラテヤ書の福音と律法の関係から、2回目はエフェソ書の契約から見ていきます。聖書が語る福音とは、「神からの良い知らせ」のことで2つの特徴があります。1つは、「神の福音」だからどんなことがあっても必ず実現するということです。<私の言葉は私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす>(イザヤ55:11)と神は言われ、その五百年後にイエス・キリストにおいて実現されました。もう1つは、神が特別に選んだ預言者と使徒を通して証言させたということです。それは聖書に書かれています。だから神の福音は、聖書を読み、聖書の言葉を信じることを求めます。信仰なくして神の福音は、自分の血となり肉とはならず、単なる「人間の言葉」にすぎないことになります。パウロ自身もガラテヤ書の最初で、<イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神から使徒とされた>と自己紹介して、私が伝えた福音は、人から受けたのではなくイエス・キリストの啓示によって知らされたのです、と語っています。

 福音を語る場合、彼は自分の回心の体験をぬきに語ることはできませんでした。生まれながらのユダヤ人であった彼は、ユダヤ教徒としてキリストの教会を徹底的に迫害していました。ところがダマスコに行く途中、突然、天から光が照って、目が見えずにおろおろしていると、<サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか>と声がありました。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、<私は、あなたが迫害しているイエスである>と答がありました。彼はこの言葉によって根柢から打ちのめされました。なぜかというと、まずイエスが生きていることを知ったからです。彼は、教会の人たちが信じているイエスという人物が、十字架にかけられて殺されたことを知っていました。ところが今、復活したイエスが自分に語りかけているのです。本当に衝撃だったと思います。しかしもう1つ衝撃だったのは、「なぜ、私を苦しめるのか」と告げられたことです。彼は教会に通っているクリスチャンたちを迫害しているのであって、イエスを苦しめているとは思っていませんでした。ところが今イエスが、「なぜ私を苦しめるのか」と告げているのです。

 「教会を迫害し、私を信じる羊を迫害しているお前はいったい何者なのか。復活した私を迫害しているのだ。」こうイエスから言われた彼は、目が見えないままに手を引かれてダマスコの宿屋に泊まり、三日三晩、飲まず食わずに、何度も何度もこのイエスの言葉を思い巡らしていました。そのとき、主に示されたアナニヤという人が訪ねてきて、イエスの言葉を告げました。すると、「目からうろこのようなものが落ちた」と書いています。これはそれまで彼を支えていたすべてのものが崩れ落ちたという意味だと思います。こうして彼は、180度方向転換して、キリストの使徒として新しく生まれ変わったのでした。
 ですからパウロが語る福音は、イエス・キリスト御自身です。何かの教えとか理念などではなく、今、ここで、語り、交わり、愛し、生きている具体的な人物です。このイエス・キリストは、父なる神に対しては、<わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか>と十字架の上で叫ばれたお方であり、また自分を憎み、十字架に引き渡す人々に対しては、<父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです>と神に執り成しの祈りをされるお方です。ですからパウロは、このお方に出会って、熱心なユダヤ教徒として律法を支えとして生きてきたこれまでの自分が、その律法の奴隷となっていたことを知ったのです。そして、律法の奴隷から解放し、その自分の深い罪を贖うために、苦しみの極みを引き受けられたイエス・キリストこそ神の福音であると語るのです。

 ところがこの福音のために彼は、この後、熾烈な戦いを余儀なくされました。それが、ユダヤ人ならば誰もが支えとしていた律法の問題でした。そこで律法について少し考えたいと思います。神に選ばれたユダヤ民族は、神から十戒という戒律を授かりました。世界のどの民族も似たような戒律を持っていますが、十戒は、神が特別にユダヤ民族だけに授けた戒律で、出エジプト記20章に書かれています。その第一戒は、<わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。>とあります。前半の、<わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。>は、長い間エジプトで奴隷であったユダヤ民族が、いろいろ抵抗したけれども万策尽きて、神に助けを求めたとき、神がモーセを通して彼らをエジプトから解放したことを語っています。これこそ「神からの良き知らせ」であり、福音です。

 これは人類初めての奴隷解放です。どの人類も文明を築くと同時に奴隷制度も作りました。だから奴隷が解放されることは、文明そのものを根柢から破壊するため、これを人間がなくすことは不可能なのです。その奴隷解放を、神が初めてユダヤ民族において起こされました。神の手によって始まったわけですから、奴隷解放は止めることはできず、解放とか人権という言葉で、今もなおつづいています。日本でも天皇制という奴隷制度から解放されるのはいつかという問題があります。
 十戒に戻りますが、前半の福音が語られた後、<あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。>と命じ、つづいて第2戒から第10戒までを命じています。ですから福音には戒めが含まれています。そして律法とは、この十戒を敷衍したさまざまな掟全体を指していて、その中心に十戒があるのです。

 神はユダヤ民族を特別な民として選び、律法を授けました。ところがパウロは、ガラテヤ書の2章15節で、<生まれながらのユダヤ人である私たちは、「異邦人のような罪人」ではありません>と語っています。彼もユダヤ民族は神から律法を授けられた特別な民族であると語っているのですが、神に選ばれ、真の神を信じていると自他共に認めているこのユダヤ人が、イエス・キリストを殺したのです。その点で、教会を迫害し、復活のイエスから「なぜ私を苦しめるのか」と言われたパウロも同じです。神の律法に生きるユダヤ民族が神の御子を殺したのです。「異邦人のような罪人でないユダヤ人」の罪とは何なのでしょうか。
 それは神の律法を用いて神に誇ること、これがユダヤ人独特の罪なのです。そのユダヤ人に感化された異邦人のガラテヤ人たちは、「律法を守らなければ神に救われない」と思っていました。だからパウロは、1章6節以下で「あなたがたがこんなにも早く他の福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれています。」と語り、「なぜそうなのか」と3章・4章・5章でも繰り返し語っているのです。

 しかしこの点で私たちも同じではないでしょうか。笑い話ですが、ある学校を視察した国の役人が授業を参観しました。そこに地球儀があったので、近くの生徒に、「君、どうしてこれが傾いていると思いますか」と訊きました。するとその生徒はパッと立ち上がると、「ボクがしたんじゃありません!」と答えました。びっくりした役人は、担当の教師に同じことを訊きました。すると「初めからそうなっていました」との答えです。あきれた役人は校長室でそれを話すと、校長はすぐに事務長を呼んで言いました。「だからあの業者に注文するなと言っておいたのだ。」
 私は若いとき、一生懸命に人間として成長しようと頑張っていました。世の中にはいろんな教えがありますが、聖書に出会って、その戒めを知りました。聖書はすばらしい書物であり、その戒めは神の戒めであると思った私は、これを守って頑張ればすばらしい人間になれると思い、まともにそれを実践しました。しかし頑張って崖を登ったと思うとズルズルと落ち、また這い上がってはズルズルと落ちました。そのために悲惨な結果をもたらしたのですが、今考えると、神の掟を自分の力で頑張って良い人間になろうという、とんでもないことをしたんだなぁと思います。

 しかしパウロは、先ほどお読みした聖書の個所で、<キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。>と語っています。
 なぜ神の律法が呪いとなるのでしょうか。ここに私たちの大きな問題があります。本来神の律法は、それを授けられた民族が神の民となるために恵みとして与えられた戒律です。その恵みの律法が、なぜ呪いとなるのか。それがパウロが戦った決定的な問題でした。神の恵みの律法を、自分の力で頑張って守っていこうとすること、それが私たちの罪なのです。神の律法を、自分が人間的に立派になるための道具として用いること、それが律法をゆがめるということです。しかし神は律法をゆがめることを許しません。そのために神は私たちを律法によって徹底的に裁くのです。つまり「律法を守りたいのか。守りたければ、ことごとく、全部、まちがいなく守りなさい。」と。ところが私たちは守れない。そして守れない私たちを神は徹底的に追いつめ、裁くのです。これが律法の呪いです。

 私たちのために良きものとして与えた律法を、自分の力で立派になろうとして利用することを神は認めない、許さない。それで神は私たちをどうするのか。それは律法によって徹底的に裁くのです。ところがその裁かれるべき私たちに代わって、イエス・キリストが呪われた、とパウロは語るのです。「木にかけられた者は皆呪われている」という言葉は、申命記21:22~23からの引用です。お分かりのように「木にかけられた者」とは、ゴルゴタの丘で、ローマ兵によって十字架にかけられ、釘付けにされて殺されたイエス・キリストを指しています。
 パウロはこの申命記の言葉を引用して、イエス・キリストが、私たちのために、私たちに代わって、呪われてくださったと言うのです。イエスは、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのですか」と十字架の上で叫びました。そのようにして、本来ならば私たちが神から捨てられなければならないのに、神の子であるイエスが、私たちの代わりに神に捨てられることが起こったのです。

 そして、その代わりに私たちは罪を赦されました。それが「贖われた」ということです。「贖い出す」とは、借金を返せずに取られてしまった担保の物件を買い戻すことを意味します。イエス・キリストが、私たちの代わりに支払って、律法の呪いから買い戻してくださったのです。私たちは、このお方を信じることによって、買い戻されます。具体的に罪が赦されるのです。神の言葉また福音は、信じなければ自分の血となり肉とならないと言いましたが、イエス・キリストという神の言葉が十字架につけられて、罪を贖ってくださった出来事を信じるときに、私たちの罪は、具体的に贖われ、律法の呪いから解放されるのです。
 それでは、贖われて、律法の呪いから解放された私たちはどうなるのか。それをパウロはガラテヤ6章15節で、<大切なのは新しく創造されることです。>と語っています。罪が贖われて、神の救いにあずかるとき、私たちの中にイエス・キリストの霊である聖霊が入ってくださって、根本から新しく創造されるというのです。それは、本来の律法を完全に行なう人間に変えられるということです。

 本来の律法とは、一言で言えば「愛」です。パウロはⅠコリント書13章4節以下で、いわゆる「愛の賛歌」を書いています。「愛は…である」と15あります。この「愛」をイエス・キリストに置き換えてください。彼はこういうお方であって、聖霊として働いてくださって、このような愛に生きる人間に変えてくださるのです。ただし、これがいつ起こるかは人によってまちまちです。「人を嫉んでしまう、マイナスに考えてしまう、やっぱりだめだぁ……。」というのが私たちの現実です。しかし注意していただきたいのは、ここに書いてあるのをよく見ると、<愛は忍耐強い。愛は情け深い。>までは肯定文ですが、それからは、<嫉まない。愛は自慢しない、高ぶらない。……>と否定文です。私たちは相変わらず嫉むのです、自慢する、高ぶる……のです。これが私たちの現実です。けれども「愛は…でない、…でない、ですよ。」と言っています。つまり、進んでは後退し、後退しては進むのです。「ああ、またやっちゃった。聖霊さま、すみません。助けてください」と悔い改め、祈るのです。<求めよ、そうすれば与えられる。>です。自分で頑張るのではなく、神に求めるのです。忍耐強くなろうとか嫉むことをすまいとか、自分で頑張るのではなくて、そんな自分であることを認めて、「こういう人間です。神さま、どうぞ助けてください。」と絶えず祈りながら進んでいくとき、しだいしだいに神さまが造り変えてくださる、これが私たちに対する大きな約束です。
 ですから大切なのは、「福音の中に律法がある」ということです。律法のない福音は福音ではないのです。イエスを信じ、イエスの福音を信じていくとき、戒めを守るように私たちを導いてくださいます。そして私たちの中に律法が実現されていき、キリストの似姿に変えられていくのです。そのようなすばらしい約束を与えられていることを感謝したいと思います。

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