2020年10月4日 聖書:ローマの信徒への手紙16章3節~16節「挨拶のまなざし」世良田静江牧師

先週、アルベルグ(一夜の巡礼宿)の話とサンチェアゴ・デ・コンポステーラの話を致しました。聖ヤコブ大聖堂に向かって歩いて行く巡礼が出来たらどんなにか幸いなことかと思いつつ、今週は、パウロが手紙を書き送った教会の信徒たちへの手紙は、心をほのぼのとさせます。真に心からなる一人ひとりへの温かなまなざしが込められています。二週間礼拝説教が続きますと、心が温かくなり、教会って繋がっていると思うのですから当たり前の事なのに熱くなりました。さて、本日は挨拶のまなざしです。挨拶って個人であれ、集団であれ、人間関係の極めて凝縮したものだと思います。13節に「主にあって選ばれたルポスと彼の母によろしく、彼の母は私の母でもある。」とパウロは言います。この短い言葉がまるで結晶のように美しく輝いています。挨拶とは結局、「まなざし」ではないでしょうか。賀川豊彦先生は相手の瞳を見つめるのが挨拶だと言われました。先生は握手をする時、まなざしの温かさを出会われた方々が受けたとの印象です。日本の挨拶には人間関係の凝縮した瞬間がありません。頭を下げて相手を見ません。さて、このルポスはあのクレネ人シモンの子であると言われます。クレネ人シモンはイエス様に代わって十字架を背負って、ゴルゴダまで運んだ人です。長い道程を祭りを見るためにやって来て、あの悩みの道、ヴィア・ドロローサを歩み、ゴルゴダの丘まで十字架を担う。そのシモンの一家が救われ、教会を支える側にいるのです。石畳の坂道をシモンはどんな気持ちで負い続けたのでしょうか。イエス様のお姿の中に体は打ち砕かれた状態の中で、まなざしに出会われたのだと思います。ゴルゴダの丘で一番間近に主のお姿を見たルポスの父シモンは、イエス様の「父よ、彼らをお許しください。何をしているのか分からないのです」極限的な苦痛の中でありながら、何の怒りも復讐心もない神のまなざし、神の愛にふれたらか、主の教えが、主イエスそのものだと分かったのでしょう。理不尽な、不条理な事も、時には深いご計画の中にあるのです。

聖書のお話