2020年10月11日 ヘブライの信徒への手紙10章11~18節 「福音の真髄(2)」川本良明牧師

 聖書は旧約聖書と新約聖書とからできていますが、旧約と新約の「約」とは契約のことです。だから聖書は、始めから終わりまで契約が貫かれています。契約とは、「契約を結ぶ」というように2人が互いに約束したことを守り誓うことですが、聖書が語る契約は、神が一方的に人間に立てるもので、ノアにまでさかのぼります。聖書は、洪水で生き延びたノアの子孫から人類は始まったと語っています。洪水の後、神はノアの家族およびすべての生き物に永遠の契約を立てて、祝福しました。「私は二度と洪水で滅ぼさない。その徴として雲の中に虹を置く」など、創世記9章に7回も出てきます。そしてノアの子孫から始まった全人類の中からアブラハムを選んで契約を結んで、祝福しました。それが創世記17章に13回も出てきます。また神はその子イサク、孫のヤコブとも契約を結びます。これは世襲の意味ではなく、その都度神が結ぶものです。その子孫はエジプトに移住し、民族にまで増えますが、奴隷になります。しかしその間も神は契約を覚えていて、その契約を果たすためにモーセを遣わして、奴隷解放の行動を起こされたのでした。
 ところが、圧倒的なエジプト帝国の権力と同胞からの強い反発で、モーセが絶望のどん底に突き落とされた、まさにこのとき、神はモーセに、<私はあなたたちを私の民とし、私はあなたたちの神となる。>とイスラエルの民に語れと告げました(出6:7)。これこそ神がめざす契約の内容であって、出エジプト後、彼らに十戒を授けました(出20章)。その第一戒は、<私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。>というものです。その前半部分は、「私はあなたたちの神ですよ」と言っています。そして、<あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。>と第1の戒めが告げられ、9つの戒めが続きますが、この10の戒めは、「あなたたちを私の民とする戒めですよ>と言っているのです。
 だから、<私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる。>というのが、聖書が貫いている契約です。しかし十戒を彼らは守ることができませんでした。その不信実に対して信実な神は、容赦なく裁きました。その裁きは極まり、ついに大国の力で国は滅び、神殿は破壊され、人々は異国の地に捕囚となりました。まさにこのとき神は、預言者エレミヤとエゼキエルを通して、<私はあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる。>と何度も語りました。これが先ほど読んだヘブル10:16の、<それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである。>という言葉です。神がイスラエル民族によって破られた契約を新しい契約によって成就するというのですが、その新しさとは、「あなたたちは私の民となる」ことの内容が、「神の律法が心に記されて、神を主と知り、神に従順となり、二度と偶像を拝まない者となる」というものでした。
 やがて捕囚期間が終わって約束の地に帰ったイスラエルの民は、二度と偶像崇拝はしませんでした。そして彼らは国を建てず、再建したエルサレム神殿と各地の会堂を結ぶ神殿体制を作り、この体制を十戒を中心とする律法で支えたのでした。だから神殿や会堂の維持と律法の厳守は至上命令となったために、イスラエル史上、最悪の事態を招いてしまいました。すなわち彼らは、神に選ばれ、律法を持ち、真の神を信じていると自他共に認めていました。彼らは自分の正しさを神に誇るために、神の律法を利用しました。そのために神の言葉は無力な虚しい言葉にすりかえられ、虚偽と偽善の罪が社会全体を覆いました。だからこそ彼らは、神の御子を憎み、排斥し、殺すという最も恐るべき罪を犯したのです。この神に選ばれた民が陥った罪に比べると、異邦人の罪は死んだも同然である、とパウロは語っています。まさにこの最悪のときに神は、イエス・キリストとして来られたのです。
 <私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる>という契約の中の、まず<私はあなたがたの神となる>ことについて考えたいと思います。ヨハネ福音書14章9節でイエスは、<なぜ、「私たちに御父をお示しください」というのか。私を見た者は、父を見たのだ。>と言われています。イエスと神は1つです。そのイエスが来たことで、<私はあなたがたの神となる>ことが起こったのです。ところが彼が直面したのは、神に対する憎悪と排斥でした。そのために彼は、苦難の道を歩まざるを得ませんでした。その中にあって彼は、子どもの時から十字架に死ぬまで、いつも神を「お父さん」と親しく呼び、ナザレ村の大工の姿のままに、失われた者、罪人たちと飲食を共にして、神が愛であることを示されました。そして彼は神の愛を、十字架の死をもってとことん示されました。その十字架の死とは、裁き主である神ご自身が、律法の呪いを全部引き受けて、自らの死をもって裁かれたということです。本来ならば私たち人間が裁かれなければならないその罪を、イエスが自らの死をもって裁かれてくださったのです。先ほどお読みした聖書に、<キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げた>とありました。イスラエルでは罪を犯したら、罪が赦されるために羊などを身代わりに献げていました。いま「罪のために唯一のいけにえを献げた」というのは、キリストが何かを献げたのではなく、御自身の体と血を献げたということです。このように神ご自身が、死の苦しみを代償にして、神が私たちの神となるための障害物を取り除いてくださって、<私はあなたがたの神となる>という契約を実現されたのです。
 しかしイエス・キリストが来られたのは、<私はあなたがたの神となる>だけでなく、<あなたがたは私の民となる>ためでもありました。ヨハネ福音書1章1節は<初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。>と語っています。ところが2節で<この言は、初めに神と共にあった。>と語っていますが、これは1節の単なる繰り返しではありません。新改訳聖書は「この言」を「この方」と訳しています。つまり、<イエス・キリストは、初めに神と共にあった>と書いて、天地創造のときにすでにイエス・キリストがおられたと語っているのです。しかも<言は肉となって、私たちの間に宿られた。>(ヨハネ1:14)つまり、私たちと同じ人間となったお方です。天地創造の前にすでに肉体を持ったイエスがおられたと聖書は証言しているのです。だから神の御子が人間イエスをご自分のものとされたのであって、神は、<あなたがたは私の民となる>という契約を成就するために、天地万物を創造されたという、物凄いことを聖書は書いてあるのです。
 ヘブル10:16にもどりますが、<それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである。>と語って、<わたしの律法を彼らの心に置く>と続けています。イスラエルの民によって破られた契約とは十戒のことですが、これは、彼らが神の民にふさわしくなるための戒律です。ところが彼らまた私たちは、この契約を守ることができない。ところが神は契約をどこまでも守り、そしてそれを成就しました。その契約とは、<あなたがたは私の民となる>というものです。<私はあなたがたの神となる>という契約を実現して信実を示された神は、<あなたがたは私の民となる>ように私たちの信実を求めます。それは土の塵にすぎない私たち人間が、なんと神の性質を持ち、神の子となって永遠の生命に生きる者とされるためです。つまり愛という神の律法に生きる者とされて、神を愛し隣人を愛し、すべての被造物を愛する者とされるというのです。
 しかしいったい人類の中で、そういう者になる資格や力を持っているものがいるでしょうか。一人もいない、否、一人だけいます。それがイエス・キリスト御自身です。彼は人間となって、私たちと共に生きられて、神のためにご自分を宥めの供え物としていけにえとなりました。そしてまた人間のために、完全な人間として生き抜かれました。つまり、神と人間の間にあって、和解の業を成し遂げられました。和解の本来の意味は、交換することです。神の怒りを鎮め、人間の敵意を取り除いたイエスは、私たちのために、私たちに代わって、<あなたは私の民となる>という契約を実現されました。その彼を信じ、受け入れるならば、私たちも契約の民となるのですが、その信仰もまたイエスが、聖霊として私たちの内に住んで、実現してくださるのです。私たちはすでに罪を贖われているのです。<もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない>と神は言われます。私たちはすでに罪が贖われており、私たちの内にイエスが聖霊として住んでくださり、私たちは聖霊の宮なのです。聖霊が信仰を与え、実を結ばせてくださるのです。ガラテヤ5章22節に、<霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。>とあります。これが、<あなたがたは私の民となる>という具体的な内容です。聖霊が私たちの内に住んで、このような実を結んでくださるのです。このようなことを約束されていることを感謝し、喜びたいと思います。

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