2020年10月18日 聖書:ヨハネによる福音書 4章3~30節 「人生という渇き」楊周漢牧師

1.出会い:現在のわたしたちの心、生活、関係の状況はいかがでしょうか。
ある日見知らぬ人から何かを頼まれましたら(水を飲ませてくださいと頼まれたら)、私たちの反応は如何になるでしょうか。

2.自分にとって「ヤコブの井戸」は何でしょうか。
 イエス・キリストに出会っているにもかかわらず、私たちはイエス・キリストの御言葉に耳を傾けるより、世の中の教えに耳を傾けてしまう時が多いのではないでしょうか。

3.イエス・キリストが私に「ここに呼んできなさい」というものは何でしょうか。
私たちは皆「内なる泉」を持っています。しかし私たちはその泉から湧き出る「生きた水」を飲まずに生活しています。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」という「生きた水」はどうやって飲む事ができるのでしょうか。それはイエス・キリストとの内的な対話(祈り、礼拝)を通して可能です。世の中の人々との対話とは違う真の対話です。世の中の人々との対話は何かを隠しながら話します。自分の全てを打ち明ける事はなかなか難しいです。しかしイエス・キリストには隠す必要がありません。何故なら全てのことを知っていらっしゃいますし、全てのことを有りのまま受け入れてくださっておられるからです。ですからイエス・キリストに自分を打ち明けたら、打ち明けるほど人生という渇きが癒され、喜びが内から湧き出るのです。ところがイエス・キリストは急ぎません。私たちがまだ勇気がなく隠していても、打ち明ける事ができる時まで静かに私たちのそばで待って下さいます(4:17-18)。
「神様の全知」は裁きのための全知ではありません。私たちの全てを理解してくださるための全知です。人々は私を誤解しても、私の真心を知らなくても、イエス・キリストは私たちの願いや悩みや苦しみ、希望や絶望、喜びや悲しみ、全ての事をご存知です。たとえ自分も自分が解らないと感じる時も、自分自身より深く理解しておられる方がイエス・キリストです。
サマリアの女と主イエスの対話は次の内容で終わります。
女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
(4章 25-26節)

聖書のお話