2020年10月25日 聖書:フィリピの信徒への手紙2章12~18節 「救いの達成」茶屋明郎牧師

 人生を振り返る時に、自分がこれまで歩んだ日は無駄でなかったし、悔いがないと思えることほど幸いなことはないし、ありがたく、尊いことはありませんが、実際はさまざまなことで失敗し、挫折し、嫌な思いをしたことが多かったと思い、これでよかったと振り返ることができることは難しいことかもしれません。
 さまざまな困難や危機に遭遇し、命の危機に晒されているただ中において、パウロが無駄でなかったと言い切っているのはなぜかと言うと、それは、救われたから、救われているから、神の救いに預かっているからということです。
 パウロのように、救われることがどんなにすごいことであるか、必要なことであるかを私たちも理解しているのかが問われます。
 パウロは、救われることは、神の子とされることであり、神に愛され、神が共におられ、支え、導いてくださる恵みに生きることであり、さまざまな困難に勝ち得て余りある大きな喜びと平安そして希望を得て、星のように輝き、命の言葉を保ちながら、愛に生き、赦しに生き、平和に生きることができるからであると言います。
 この救われることによって生まれる生き方は、よこしまな曲がった世の中においてこそさらに光り輝くものになる。つまり、憎しみや不寛容そして無責任、嘘偽りが覆う耳朶に中においてこそ貴重であり、必要であり、尊いものになる。
 すごいことのもう一つは、救われるのに必要なことはただ従順だけであり、行いによるのではなく、ただ神の恵みをひたすら信じ、畏れつつ、つぶやかずに従うことです。
 パウロが確信をもって伝えているのは、救いは神の技であり、生ける神は、ダイナマイトのような大きな力をもって、すべてに関わって、救いを完成させてくださるからというです。

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